保存情報第60回
遺したい故郷の文化遺産 浄土宗 玉松山 祐福寺 鈴木達也/辰巳設計

本堂

勅使門

鐘楼
■発掘者コメント
 県道(名古屋−岡崎線)祐福寺の交差点を西へ進むと、右手に白土塀の参道が現れ、その先に朱塗りの門が見える。
 浄土宗玉松山祐福寺は鎌倉幕府成立の頃、1191年(建久2)、頼綱入道蓮心が草庵を結んだことに始まる。以後、本堂をはじめ講堂、護摩堂、鐘楼、開山堂など七堂伽藍の建設が進められ、1388年(嘉慶2)に完成した。当時、寺領は700石、境内17町歩、末寺25寺を有し、後小松、後柏原、後奈良三帝の勅願道場として栄え、東海中本山として威厳を示した。また、今川義元は桶狭間にて戦死の前日、この寺に陣をとったという。爾来再建、修理を繰り返しながらも当時の諸堂宇は今も残り、境内は800年の歴史を感じさせる。
 勅使門は1528年(大永8)、後奈良天皇の時につくられたもので、桧皮葺一間一戸、朱塗りの扉には十六菊の御紋章がある。
 奥に配置する本堂の大棟にも御紋章が入っており、勅願寺の趣を漂わせている。内部は幅十間半、奥行八間半、上げ内陣に見事な漆塗りの柱が並び、本尊の宮殿や須弥壇は豪壮そのものである。
 珍しい鐘楼門造りの鐘楼は、数度の再建を経て明治25年に建立されたもので、阿吽の像が守る山門の役割を果たしている。
 県道はもとの平針街道(岡崎街道、姫街道とも呼ばれる)であり、名古屋城築城時に東海道のバイパスとして開かれた。松並木など当時の面影は失われたが、祐福寺一里塚のみが街道の両側に対をなして残っている。  境内には蝉時雨の中、子をあやす老婦人が木陰に涼を取り、その眼下に東郷の街が広がっていた。

所在地 愛知県愛知郡東郷町春木3417
データ発掘(お気に入りの歴史的環境調査) 蟹江町須成(すなり)の山田酒造 才本清継/才本設計アトリエ

主家外観

主家内部
広々とした土間で接客がされる

町並み
■発掘者コメント
 蟹江町の須成地区は町の北端に位置する集落で中央に蟹江川が流れ、須成神社などを中心に栄えた集落である。蟹江川は酒造りに適した伏流水が湧き出ており、この地域では江戸時代か明治にかけて酒造りが盛んであった。そして、原材料や製品は蟹江川の水運が利用された。明治の初め頃は蟹江町内に十数件の造り酒屋があったが、現在はこの山田酒造と甘強酒造の2軒だけが残ったとのことである。
 山田酒造は四方道路に囲まれた大きい敷地で、道路側に醸造場や蔵が配され、昔ながらの換気及び採光用の窓が規則的に並び、古き時代の景観をとどめている。その一部を割って入ったところに主家がある。主屋は1891年(明治24)の濃尾地震後、1991年(明治34)に建立された。地震に懲りて2階の階高を極力小さくした。しかし1932年(昭和7)の増築では、地震の記憶も薄れ2階の階高はかなり高くされたとのこと(現当主弁)。柱や梁材、建具の鏡板に吟味された欅材を用いられ、往時の豊かさが感じられる。玄関を入ると大きな土間があり、左横の座敷とともに接客空間として使われている。玄関扉や座敷の建具は日中は全開放され外部の庭空間と一体になり、陽光や外の気配をつねに感じ取れる気持ちよいスペースとなっている。
 毎年8月にはこの地域で、蟹江川を舞台に須成祭が行われます(この祭は500年近い歴史をもつ)。宵祭には巻藁舟(まきわらぶね)、翌日の朝祭りには車楽船が出ます。川にはこの船が通る時のみハネ上にあげるという御葭橋(みよしばし、現在のものは鉄製)という巻上げ式の橋がありますが、山田酒造から程近いところにあります。またこの山田酒造の東に面する道路は「信長街道」と称され、若き織田信長が清洲攻めのときに通った道だと伝えられています。歴史と建築を重ね合わせることで、興味はさらに尽きなくなります。 *歴史的記述は蟹江町公式ホームページから引用


所在地 愛知県海部郡蟹江町大字須成1245