タイルの魅力 第2回
タイルの発展 〜イスラム文化で発展したタイル装飾
後藤 泰男|蟹NAX タイル建材事業部
1. はじめに
 古代エジプトのジェセル王階段ピラミッドの内部を飾ったタイル製造技術は、一部の技術が途絶えながらも文化の東西交流の中で他の製造技術とも融合し、12世紀以降イスラム文化と共に画期的に華開いたと言われている。当時のモスクや廟の壁面装飾は今日でも見ることができ、イランを訪れる人々の目を釘付けにしている(図1)。  本編では後にイスラム文化中心の地となるオリエント地域での彩釉れんがとラスター彩タイルの誕生と、これらの技術の融合によるイスラムのタイル文化が発展した過程をまとめてみた。
(図1)イマームモスク(イスファハーン) (図2)多彩色施釉れんが スーサ出土(世界のタイル博物館)
2.建築装飾材としての 彩釉れんが誕生
 古代エジプトと共に四大文明の一つであるメソポタミアでは石材や木材が乏しく、日干しれんがが建築の創成期から構造材として使用されていた。この日干しれんがから、さらに焼き上げる焼成れんががいつ頃生まれたかについては諸説あるが、チグリス川下流のスーサという地区で発見された彩釉焼成れんがはBC700年頃のものとされている(図2)。彩釉れんが誕生の必然性は、外装材としてれんがへの彩色であり、風雨に耐える必要のある外装材に色をつけるために当時の釉薬技術が応用されたものと推測する。
 新バビロニア(BC600年頃)の都バビロンにあったイシュタール(愛と戦いの女神の名)門とそこにつながる通称「行列道路」の側壁には数多くの彩釉れんがが使用されていた。このれんがは現在もベルリンのペルガモン博物館でその一部を見ることができる(図3)。
(図3)イシュタール門(イシュタール門施釉れんが装飾) イシュタール門(ベルガモン博物館)
3.金属光沢を持つラスター彩タイル
 バビロニア帝国が滅びた後、メソポタミアの地では、ペルシャ帝国の時代を経てイスラム世界へと移り変わる。イスラム帝国の黄金時代とも言われたアッバス朝(750-1258年)の時代、東西貿易の中心でもあったバグダットには世界の冨が集まっていた。民衆は贅沢になり、絹をまとい、さかんに金属器を使うので金銀銅が不足するようになり、時の政府は金属器の製造を制限し、贅沢禁止令を出したといわれている。これに対し、金属器に対して特別な関心と愛着を持っている技術者が発明したのが、光のあて具合によって七色に輝き、すぐれた金属器のような光沢を発散するラスター彩と呼ばれる陶器であった。このラスター彩は酸化銀や酸化銅を含む特殊な顔料が用いられ(図4)、強還元焔の窯で焼成することで得られる。
 このラスター彩を施したタイルは、その当時極めて特別な建築装飾にのみ用いられ、裕福な権力者にとっても決して一般的な建築装飾ではなかった。このことは、古代エジプトでタイルが宝石に近い扱いを受けていたことに通じるものがある。  話は少し逸れるが、ラスター彩は12世紀ごろ建築装飾だけでなく、食器などにも使われてきたが17世紀以降、この手法による陶磁器はどこにも存在しておらず、永くその技術は謎とされていた。この謎となっていたラスター彩を再現したのが日本人の故加藤卓男先生(人間国宝)であった。
 生前、加藤先生にお話を伺った際には、ラスター彩が再現できるのは冬の限られた期間にのみであると言われ、晩年の再現は難しかったと聞いた。加藤先生が亡くなられた今、またこの技術は途絶えてしまったのかもしれない。
(図4)ラスター彩タイル 彩釉部分成分分析結果(銀、銅の存在が確認できる)
4.ペルシャで彩釉れんがとタイルが融合
 バビロニアで大量に使用された彩釉れんがの技術もまた伝承されず途絶えた技術であった。宗教建築や宮殿において、幾何学的な文様や紋章の形に詰まれたれんがの凹凸は、太陽の光で生み出される陰影を壁面に表現していたが、このれんがに再び彩釉技術が用いられたのは、時代がかなり下がったセルジューク朝(1038-1194)の時代であり、トルコブルーの釉薬を施した彩釉れんがが用いられるようになっていった。
 この彩釉れんがの技法は、釉薬技術の発展を背景に施釉タイルの技術へ展開されていった。これにより、それまで限られた建築物でしか使われなかった施釉タイルが宗教建築の多くの利用へと変革を遂げたのである。さらにタイル製造の技術は発展し、その絵付けの多彩さと形状の多彩さが際立っていく。
 特に特筆すべきは、イル・ハーン朝(1258-1353)に起こったとされるモザイクタイルによる装飾技術である。ここの技術は、目的とする模様の形状にタイルを切り刻むことから装飾作業が開始される。タイル加工職人は先の尖ったハンマーひとつでそれぞれの色のタイルパーツを切り刻む(図5)。約1000℃の温度で焼かれたこのタイルはそれほど硬いものではない。切り刻まれたタイルは目的とする模様を構成するように表面を下に敷き並べられ、裏側を漆喰あるいは石膏で固める。この表面が多くの色合いのタイルで構成された幾何学模様の板体を針金等で躯体に取り付けていくことで、このタイル壁面は構成されている(図6)。いわば現代のタイルPC板工法と同じ施工方法ともいえる。
 このモザイクタイルによる意匠表現は偶像崇拝が禁止されていたイスラム教において最も適した装飾方法でもあり、当時の宮殿や廟はさまざまな植物や幾何学模様を表現した美しいモザイクタイルで覆われることになる。
(図5)モザイクタイル(世界のタイル博物館) モザイクタイル工場(モロッコ)
(図6)モザイクタイルのユニット (図7)アルハンブラ宮殿使用タイル
5.ペルシャからイベリア半島へ
 このカットモザイクによるデザインは、アフリカ大陸地中海岸の国々を経てイベリア半島でのイスラム文化へも大きな影響を与えている。イスラム文化をイベリア半島へ伝承する上での重要な拠点でもあったモロッコでは、いまなお当時の製造方法そのままにモザイクタイルの生産が行われている(図5)。しかしながら、イベリアのタイル製造技術者はモザイクによる表現の合理的生産方法を求め、タイル一枚の中で複数の色合いを幾何学模様として表現する手法をあみ出していく。この発展したタイルを用いた代表的建築物が有名なスペイングラナダのアルハンブラ宮殿である。アルハンブラ宮殿にはモザイクタイルでの壁面装飾だけでなく、一枚のタイルの中に複数の色合いの幾何学模様を彩ったタイル(クエンカタイル)も数多く使われている(図7)。
6. おわりに
 宝石や金属器の代替として一部の限られた部位にのみ使用された高級装飾物であったタイルが、イスラム世界においてれんが製造の技術と融合し一般の宗教建築に使用されるようになった。この後、タイルによる壁面装飾の技術は、欧州からイスラム帝国がキリスト教勢力に征圧され撤退することになった後も欧州の地で発達し、イギリスの産業革命を経てさらに一般的になっていく。この辺りの経緯を次回に記す。
参考文献
1) 『オリエントのやきもの INAX BOOKLET vol.10 No.4』(山本正之、小川英雄、岡田保良、大津忠彦著、INAX出版刊)
2) 『タイルの美U(イスラム編)』(岡野智彦著、TOTO出版刊)