JIAと私C

新建築家協会設立のころ
大塚 一三
 1980〜1981年度 JAA東海支部幹事長
 1985年度      愛知建築設計監理協会副会長
 1986年度      JAA東海支部長
 1987年度      JIA東海北陸支部支部長
専業設計者集団として
私が旧日本建築家協会(以下、家協)に入会したのは、1965年の春である。この年の入会者は佐久間達二さん、針谷正作さんを含め17名、支部会員数は70名近くになっていた。翌年、愛知県美術館で「建築と色彩」のテーマの下に支部事業としての建築展が閑催されたとき、坂倉準三会長が来場された。幹事長の広瀬一良さんに伴はれて挨拶にでた。小柄な体のどこから出るのか不思議なほど大きな声で、会員としての覚悟を問われた。「いまは建築家協会会員といういわば箱書きだけもらって中身がない。少しでもすわりのよい中身が入るように努力したい」というようなことを答えた記憶があるが、これはいまだ果たせていない。
 1986年東海支部長の任に就くことになった。「確かに6年前針谷支部長のもとで幹事長を務めてはいるが、支部長職はその任に有らず」と固辞したけれども、ついに引き受けざるをえないことになった。
 しかし、この2,3年前から、家協と8年前に家協が主導して全国にあった既存の専業設計事務所団体を含めて設立した日本建築設計監理協会連合会(以下、設監連)を取り巻く環境はかなり厳しいものになっていた。先日なくなられた太田良男さんがJAA東海支部創立30年史でも触れておられるように「家協会の職能追求70年の流れは(現在では)実りのないものに終っている」ことにどう活路を開いていくかの苛立ち感と他団体間との対立、すなわち建設省の指導下にあった全国建築士事務所協会連合会と、設監連との間の軋礫は抜き差しならぬところまで来ていて、建設省側もこれを行政的にどう解決するか苦慮していたのであった。
 家協でも建築士法改正によって専業建築家の法的規制を求める運動を進めているうち、たとえ個人と事務所の違いがあるとはいえ、家協と設監連の2つの専業団体が存在していては統一行動が取れないとの判断からその統合が考えられるようになってきていた。これを強力に進めたのは1982年から4年間会長を務めた圓堂政嘉氏であった。圓堂氏は設監設立を推進した強力なメンバーであってその論法の変化には、建設省のさる高官をして「極めてプラグマティッシュ」と評させたのが記憶に残る。
活動制約されたあの頃から
 1987年6月11日、新日本建築家協会(JIA)が丹下健三氏を会長として発足する。現在“新"が外され旧名と同じとなっているが、この新団体の名称も素直に決まったわけではなかった。ラテン語に「名づけることは知ることである(Noemenestnumen)」という諺がある。名は目的にぴったりでなければならない。「新」には家協とは異なるという意味を持たせていた。設立総会を間近にして参加を表明したのは約7,000人であった。しかし30,40代の若い建築家の参加が少ないのが目立った。丹下会長は、「30から40代の建築家の層は厚い。その層が抜けるのは、将来の建築界にとっては大変なことだ。それを受け入れないJIAは意味がない」として自ら若い建築家の入会勧誘に乗り出したのである。現在の会勢を見るとき、この運動が持続していたらと悔やむばかりである。
 一方、建設省はJIAの発足と同時に、混乱した団体間の関係を整理した。ここで考えられたのが、いわゆる建築設計に関連する日事連、士会連合会をあわせた3団体のあり方に関する3極構造である。しかしこの団体構造整理によりJIAの各地域における活動にかなりの制約が課せられることになり、地域から会全体を盛り上げていく形の運動が難しくなった。東海・北陸支部で各地域会の名称を部会としたのは苦肉の策であった。ジュリエットの有名な台詞「バラの名は__」を引用して各地で理由を説明したのも今は懐かしい思い出であって、現在の地域会の白由な活動振りを見ると隔世の感がある。
私の支部長としての2年間を要約すると、初年は旧2団体の解散処理、2年目は新団体の設立、支部組織の確立に尽きる。支部の立ち上げには、東海北陸7県の実に多くの方々の協力をいただいた。なかには既に退会されあるいは鬼籍に入られた方もあるが、ここに改めて心からの御礼を申し上げたい。