保存情報第59回
登録有形文化財 旧今泉医院診療棟・病室棟・手洗い場 北野哲明/北野建築計画工房

診療棟正面

診療棟翼廊下

手洗い場

診療室内部
■発掘者コメント
 旧今泉医院は、先代今泉健蔵氏ならびに今泉忠男氏(1902〜1999)により1927年から1988年まで開業されてこられました。現在は閉院と同時に時が止まったように、薬局、診察室の家具、医療器具、薬品類もそのままの姿で置かれ、忠男氏の筆名「御津磯夫」氏の遺品を展示する形で、内外装、床のリノリューム張り、照明器具も当時と変わりなく保存されている。建築のみならず、昭和時代の医院の開業の姿を知る上でも貴重な登録文化財である。名古屋大学西澤泰彦氏によれば、診療棟は西洋ルネサンス建築の影響を受ける「復興式」とバロック建築の影響を受ける「近世復興式」の中間に位置する様式という。丸柱に支持される玄関ポーチと上部のバルコニー、左右対称に延びるドイツ壁の洋風医院建築にその様式が読み取れる。一方で、加賀乙彦の小説『永遠の都』を連想する空間がそこにある。
 建築は地場の棟梁によるものであるが、名古屋の医院建築を視察し、その様式を取り入れたと記憶されている。病棟のほか、農村地帯によくあった、ほほえましい玄関先の手洗い場も登録文化財になっている。
 軽微な修繕のほかの改造は全くなく、建設当時の姿を忠実に示している建築も、漆喰塗り大壁の亀裂、リノリュームの劣化など、加齢による損傷があちこちに散見され、所有者の夢である「御津磯夫記念館」に向けての、保存を前提とする改修が望まれる。
所在地 愛知県宝飯郡御津町大字御馬字西
交  通 JR東海道線「あいちみと」駅から徒歩10分
構  造 木造(診療棟、病棟) 
      コンクリート造(手洗い場)
建設年 1925〜1927年
登録番号 23-130〜23-132

データ発掘(お気に入りの歴史的環境調査) 諸戸水道遺構 林廣伸/林廣伸建築事務所

貯水池遺構


縦坑遺構

給水塔遺構
■発掘者コメント
 明治期の桑名の集落は、揖斐川河口寄りに偏在する城下と、七里の渡しから城郭に沿って延びる東海道廻りに集中していた。現在の桑名駅周辺は田園地帯で、城下からは西方に低い丘陵を望むことができた。
 この西方の丘陵の山腹、桑名高校から南へ路地を入ると地中に埋もれた煉瓦積みの遺構が見られる。「諸戸水道」の貯水池遺構で、かつては寄棟造瓦葺きの覆屋が建っていたようであるが、現状ではその覆屋はなく、剥き出しの煉瓦が不思議な迫力を見せている。水源はこの山腹から300m程西に向かって数本の横坑を穿ち、山中の湧水を集めていたようである。だが、機械力なしにどのように掘り進めたのかうかがい知れない。
 さらに貯水池遺構の脇の細い道を下ると、2.5m径ほどの円形井筒が地表よりわずかに顔をのぞかせている。ここが当初の水源ではないかと推測される。外面はモルタル塗だが内壁は煉瓦で、モルタル塗は後世の改修とみられる。また、諸戸邸の煉瓦塀西側にはやはり煉瓦積みの給水塔が残る。ここから邸内へ配水されていて、その様子は、諸戸邸に残る、「昭和五年四月」と年記のある図面で知ることができる。
 「諸戸水道」は初代諸戸清六氏が巨額の私財を投じて築造し、1904年(明治37)6月に完成している。全国で7番目の上水道施設である。この水道は諸戸氏の私用としてばかりではなく、旧桑名町一帯に給水され、共用栓55カ所、消火栓24カ所を設けたと伝える。とくに悪水であった旧赤須賀村では大変喜ばれ、桑名城南の赤須賀神社内には諸戸清六氏の遺徳を頌える顕彰碑が建っている。「諸戸水道」は、1924年(大正13)、旧桑名町に寄贈された。
 明治期の産業遺構として残る「諸戸水道」は、桑名市指定史跡として貯水池が、給水塔は「旧諸戸氏庭園」とともに国名勝として指定されている。

所在地 桑名市東方1514
     桑名市太一丸687-5