保存情報第56回
遺したい故郷の文化遺産 揚輝荘その2・北の伴華楼と南の聴松閣 尾関利勝/(株)地域計画建築研究所


伴華楼


聴松閣
■発掘者コメント
「名古屋の郊外化の先駆、山の手別荘の代表作」
 揚輝荘は日泰寺東南、約1万坪の雑木林の丘に、松坂屋創業家第十五代伊藤次郎左衛門祐民氏が1918年(大正7)から1939年(昭和14)にかけて、城下町からの移築を中心に最盛期には30数棟の建物群と庭園とを一体的に造営した名古屋の郊外別荘の代表作である。自然の中に同じように仕立てられた例に横浜三景園、京都白沙村荘、大山崎山荘などがある。
 名古屋の別荘庭園には各地の大名庭園を受け継ぐような大規模庭園が少なく、現存する八勝館、東山荘、暮雨巷のように名古屋を風靡した「茶庭」、明治期の「お茶普請」の系譜を受け継ぐ住宅と一体の茶庭形式の小規模な庭園が多い中で、揚輝荘はこの系譜を受け継ぎつつも、名古屋最大規模の庭園であった。
 マンション化等により最盛期の姿は留めていないが、北の庭と南の庭が保存されることになり、揚輝荘のエッセンスとも言える部分を残すことになったのが幸いである。
 北の庭には尾張徳川家からの移築を建築家鈴木禎次が巧みにアレンジした和洋折衷の伴華楼、伊藤家から移築した煎茶席の三賞亭、修学院離宮千歳橋を模した白雲橋などが建築家の意図と思われる回遊式庭園の回りに配置され、ユニークな庭園を構成している。
 南の庭には名古屋財界人の社交、海外や皇室など貴賓のもてなし、アジアの留学生が寄宿し国際交流の場となった聴松閣、松坂屋本店付近から移築された座敷、蔵が現存する。
 最盛期には尾張徳川家より移築した橋の寮、本宅から移築した暮雪庵、後に築造された不老庵が雑木林に開かれた南垂れの庭に面して配置されていた。庭園は当初の書院式眺望庭園を暮雪庵の移設後、松尾宗吾宗匠により南に開ける市街地を借景に、月見にうってつけの茶庭にしつらえ、北庭とは対照的な和の庭としての風情を伝えている。  北の伴華楼、南の聴松閣に代表される揚輝荘の魅力に惹かれ、四季の文化交流活動に参加する市民グループや来訪する人が絶えない。
所在地 名古屋市千種区法王町
創設者 伊藤次郎左衛門祐民
設 計 鈴木禎次(伴華楼)
施 工 竹中工務店
面 積 約9500u     
データ発掘(お気に入りの歴史的環境調査) 財団法人足立病院 場々大刀雄/場々建築設計事務所


正面 左側のドアは住まいの入り口


反対側の病室より、中庭を通して管理棟を見る


受付
■発掘者コメント
 起工が1927年(昭和2)、竣工は1928年(昭和3)11月であり、構造は、1階が鉄筋コンクリート造、2階は木造であって、設計者は、初代院長のお兄さんで足立武郎という方でした。彼は名古屋高等工業(現、名古屋工業大学)に進み、卒業後、愛知県庁に入り、建築技師として、愛知県庁舎、県内の旧制中学校などの建築を手がけ、将来を嘱望されましたが42歳で他界しました。その彼は当病院を設計している時、頭の中には、常にライトの帝国ホテルのイメージがあったのではないかと思われます。現足立院長もそのようにおっしゃていました。銅板の屋根(現在の屋根は一度葺き替えているが)を寄せ棟の緩勾配にして庇の出を長く、軒樋を箱樋にして庇の中に組み込んでおり、写真でお分かりのように、色の扱い方など、帝国ホテルの雰囲気が感じられます。
 この病院は奥が広く、中庭を囲んで病室があり、手入れの行き届いた庭園を眺めながらの療養ができます。現院長の足立先生は二代目でありますが、医療のかたわら、古建築に深くご興味をお持ちでおられる方でして、この建物をこよなく愛されておることがよく分かります。普通は、ほこりまみれになる廊下などはピカピカに磨かれており、木造の柔らかい雰囲気が出された建物と思われます。昭和3、4年頃、この地で陸軍の大演習が行われましたが、司令長官として来た宇垣一成陸軍大将がこの建物の2階の1室を書斎として使われておりましたが、その部屋は洋室ではなく和室でした。と足立先生のお話でした。 ()

所在地 愛知県春日井市若草通り1-1
データ発掘(お気に入りの歴史的環境調査) 日蓮宗 富士山 西山本門寺 鈴木 力/U設計集団リキ建築設計室
 富士山を望む
本堂
■発掘者コメント
 西山本門寺は康永三年(一三三四)十月十二日、日蓮大聖人の高弟、六老僧の一人によって開創された。国、県、町などが指定する貴重な文化財を多数有する富士五山の名刹である。
 ゆるやかな坂道を登ると境内に至る道があり、下馬札を許された「黒門」から入ると、春には桜吹雪が楽しめる参道がある。また、それにつづくとした杉木立を横目に、百三十五段のどっしりとした石段を登り切った所にも境内に至る道がある。
資料が伝える創建当時の伽藍には及ぶべくもないが、境内に入ると見事な荘厳さと安定感を誇る本堂が目をひく。二層の鐘楼、御宝蔵、水屋、庫裡、塔頭などが静寂の中に趣を残し、「黒門」の下馬札“下馬下乗”禁札のある由緒からも、西山本門寺の“京”との縁の深さを伺い知ることができる。
 天正十年(一五八二)六月二日、京都本能寺で討ち死にした織田信長の首級を、家臣の原志摩守宗安が、当山十八代日順上人(織田信長の家臣原家出身)の縁によって自刃した父と兄の首とともに納め、“織田信長公首塚”として柊を植えたとされる。現在、その周囲は四.六メートル、目通り三〇.六メートルで、“”の巨木になっている。秋の境内は、黄毛氈を敷くが如く大銀杏や、樹木の美しさの均衡が時の流れを沈黙の中に語っており心が休まる。
 毎年四月十八日は、本堂伽藍を中心に所蔵の重要文化財を一般公開する“”の日であり、全国からの参拝者で境内は賑わう。
 地震災害などで、当初の伽藍諸堂はく大破倒壊したと記録は伝えている。現存する一層の本堂以下の建造物は芝川西山断層上にあるとされ、地震災害の影響を受けないことはないだろうかと懸念するところである。
所 在 地 静岡県富士郡芝川町西山671
構 造 本堂:木造一層
     鐘楼:木造二層
アクセス 身延線「富士宮」駅下車、白糸行き、猪之頭行き、富士吉田行き等のバスのいずれかに乗車して、所要時間は25分、「本門寺入り口」にて下車、徒歩5分。 新幹線「新富士」駅下車、タクシーで35分。
データ発掘(お気に入りの歴史的環境調査) 旧マッケンジー邸 鈴木 斉/針谷建築事務所

全景


食堂
■発掘者コメント
 旧マッケンジー邸は、大正七年(一九一八)、米国より貿易商として来日し、日本茶を海外に広めたダンカン・マッケンジーとエミリー夫人の住宅です。静岡の地で夫を亡くされた後も、エミリー夫人は、社会福祉の向上のために尽力され、昭和九年(一九三四)十月には静岡市の名誉市民第一号に選ばれております。
 南に駿河湾と伊豆半島を望み、北に富士山を見る景勝の地に建つ赤い西洋瓦葺の屋根、白壁のスタッコ仕上げの外壁、アーチ窓の構成などが、透き通る青空を背景にして建物の存在を一層高めています。このほかにも、マントルピースや台所のアメリカ製調理器、水洗式トイレ、スチーム暖房など、近代的な設備が当時のままに保存されています。
 昭和二十二(一九四七)年六月の帰国の際、静岡市に寄贈され、昭和三七年(一九六二)に改修工事が行われました。現在は文化団体などにも貸し出され、音楽会、俳句の会など文化活動の場としても利用されています。
所 在 地 静岡県静岡市高松2852
構  造 木造2階建地下1階
延床面積 555.66u
竣 工 年 昭和15年(1940)
設  計 ウィリアム・メレル・ヴォ−リズ
公開状況 午前8時30分〜午後5時
月曜日(月曜日が休日にあたる場合はその翌日)
国民の休日に関する法律に定める休日の翌日(日曜日にあたる場合を除く。
年末年始(12月26日〜翌年1月5日まで)
アクセス 「静岡」駅下車南へ4q