JIA東海支部の半世紀 最終回
第3段階に入った建築家職能の確立運動
税田公道(終身正会員)
士法改正に向けての政策の転換と
設監連との新たな協調体制へ
(キャンプ川奈合同会議)
1983年(昭和58)2月22日〜23日
1984年(昭和59) 第二国立劇場問題起こる
1985年(昭和60) 第15回大会開催
1985年(昭和60)11月13日〜15日 場所:全国都市会館及び赤坂プリンスホテル(東京) 統一テーマ:「建築士行政の転換を求める」
「建築士」等の実態調査報告
明治学院大学キャンパス設計者推薦依頼事件
[参考資料] 『日本建築家協会ニュース』NO.545、546、548
1986年(昭和61) 丹下健三氏、会長就任
新団体結成へ向けての「行動計画」
1986年(昭和61)5月28日の通常総会における昭和61年度事業計画の一環としてその「行動計画」が採択された。
1987年(昭和62) 「冬の時代」から急激な「建設活況期」へ
1986年(昭和61)末まで「冬の時代」といわれた日本経済は、その後、急激な経済的好況の時代に入っていく。後に「バブル経済」といわれるこの経済現象は、当時、建設投資を活発化させ、建築生産の上でもこれまでに見られなかった新しい動きが目立ち始めた。
・「高度情報化社会」への突入を暗示するような、各種サービス産業施設の出現、建物のインテリジェント化、大規模な都市再開発、地域開発、リゾート開発などの出現。
・信託銀行、生命保険会社等の金融機関のほか、商社や広告会社、各種企画コンサルタントが参加して大規模かつ多機能の商業ビル群を建設するといったプロジェクト計画が出現し、それらが「事業コンペ」によって発注されるケースが多くなる。
・ ゼネコンの子会社や新会社、その他新しい「空間プロデューサー」や「コーディネーター」、「コンサルタント」といった企業がインテリア・デザインからランドスケープ・デザインにいたる広い領域に進出し始める。
・ 大型設計事務所も従来の個人完結型の組織を越えた企画力や管理能力を備えた新しい組織を模索し始める。その中から、ファシリティ・マネジメント(FM)といった新しい職種も出現する。
・ 日本企業の海外進出はもとより、海外から各種建設企業、コンサルタント、コンストラクション・マネージャーや建築家たちが日本の「市場」に進出するようになり、やがてその建築市場の自由化を求めてUSTR(米通商代表部)との間で「日本建設協議」が開始される。
建築士法改正に向けて、さらに具体的提言
通常総会(解散総会)
日時:1987年(昭和62)5月27日
場所:JAA1階ホール
正会員数:1,136名
出席者数:108名
委任状による代理人数:622名
出席総数:730名
[補足] (社)日本建築家協会(JAA)は以上等の記録のとおり、1987年(昭和62)8月21日をもって消滅したが、新たな(社)新日本建築家協会(JIA)に統合し、後に(社)日本建築家協会(JIA)と改名して今日に到っている。
家協会と合同する前の
(社)静岡県建築事務所協会の動き
1968年 (昭和43) に設立された(社)静岡県建築事務所協会は、専業事務所団体として唯一であり、他には静岡県建築士会があるのみであった。行政側との結び付きも強く、大きな発言力を持っていた。設監連設立と同時に加盟し、積極的な活動が目立っていた。静岡は歴史的な背景もあって、沼津、熱海、静岡、浜松とそれぞれ核となる都市を持ちつつ、地域活動を続けていた。地勢的に見ると、富士川以東の東部支部、富士川、大井川間の中部支部、大井川以西の西部支部の3ブロックとなる。会長も支部持ち回りであり、初代鷹野一雄氏(浜松)、吉川由造氏(熱海)、稲田喜一氏(沼津)と引き継がれていった。また静岡の重鎮である針谷正作氏の企業組合針谷建築事務所は、専業設計組織の一つの方向を目指したものとして注目を集めた。針谷氏は、後進の育成に励み、後に起きた耐震問題にも積極的に関わり、大きな実績を残した。設監連の単位会として鷹野氏を擁して設監連の活動にも新しい息吹きを入れた先導的役割を果たすこととなった。
 この頃、東海大地震が想定され、耐震対応が県の重点施策となった。静岡県建築事務所協会では「公共建築物耐震診断特別委員会」を設置し、行政と一体となり、その対応で大きな成果を上げた。当時の吉川由造会長は、この問題に積極的に取り組み、協会活動を軌道に乗せ、単位会として最も確かな実績を築いた。
 1979年度(昭和54)の設監連総会は、静岡市民文化会館で行われた。
愛知設計監理協会
 立ち上がりが待ち望まれていた愛知建築設計監理協会は、1978年(昭和53)10月12日設立総会を開催、城戸武男氏が会長となる。やがて、1979年度(昭和54)総会において設監連正式加入となる。その後、会長は黒川巳喜、佐久間達二の各氏に引き継がれる。愛知県では、行政当局の強力な指導による愛知建築士事務所協会があり、設立された愛知設監との間には抜きさり難い葛藤があった。1980年(昭和55)6月28日、29日には名古屋市の郵便貯金会館において設監連総会が盛大に行われた。1982年(昭和57)、建設省によって設監連およびその単位会の法人化問題が表面化した。
 それを受けての愛知設監の法人化への活動も活発化したが、行政当局からの「両会の協調が先行」との前提条件に阻まれ、遅々として進まなかった。そんな中にあって、1983年(昭和58)2月、伊豆川奈ホテルで行われた日本建築家協会と設監連の合同会議の席上、圓堂政嘉日本建築家協会会長の発言に端を発した設監連の在り方および人事問題が勃発した。佐久間愛知設監会長の「不当発言である」との髪を振り乱した強烈な抗議は事の重大さを増した。やがて専門紙が内幕を暴露することとなった。その後数カ月を費やして行われた両協会長(圓堂家協会会長、高橋設監連会長)の数度の往復書簡による「協調を確認しあう友好のメッセージ」により決着を見た。
 その端緒ともなったのは、愛知設監の強力な助っ人であった愛知県出身横山代議士(社会党)が衆議院建設委員会で行った、建設省豊蔵住宅局長に対する建設省への質問を「難詰である」とした圓堂家協会会長の発言であった。これを愛知設監にとって許せない発言と見たことは、止むを得ない抗議ではなかったかと推察される。
 京都で行われた設監連10周年大会の提言を機に、設監連の進む方向についての議論は活発化し、建築設計界の再編成、新団体結成への道を歩むわけだが、この間の愛知設監での意見は色濃く反映されたと見られる。
 特に愛知設監では広瀬一良、大塚一三、五十嵐昇の各氏らの積極的な発言が活発に行われ、設監連の活動に影響を与え続けた。
(注)以上の(社)静岡県建築事務所協会の動き、愛知設計監理協会の文は「日本建築家職能の軌跡」誌(鶴巻昭二氏執筆分)から転載しました
第3段階の出発点
家協会第3期の始まりを暗示する事柄
 2005年3月22日、JIA初代会長丹下健三氏が世を去った。建築家磯崎新氏の言葉を借りれば「商人国家と相容れず」、「列島改造に引き出されて後は、もう余生だったのだ。新東京都庁なんか、伝丹下健三としておいてもらいたい。弟子の身びいきで勝手にそう考えている」と結んでいる。これを伝える朝日新聞3月23日付け夕刊に先立つ朝刊に丹下氏の死去の報と並んで証券監視委員会が西武鉄道株事件で、堤義明コクド前会長を刑事告発したと報じている。堤氏の華やかな政界人脈、歴代首相とも親交の見出しの記事の中にも丹下氏が登場しているが、前記磯崎氏の言う列島改造に引き出されて後の丹下氏の姿をそこに見ることができる。商人国家の人々と横を向いて口笛を吹いている丹下氏の姿だ。同じく昨05年には建築界を震撼させている姉歯元建築士事件が発生した。内容は今更述べる必要もないだろう。
 21世紀の入口で日本は資本主義国から商人国家へと変貌してしまった。倫理不要、法律無視が自由にまかり通る世の中が本当に自由な社会だとする今の風潮に「待った」を掛けることから始めねばならないと思う。建築設計と監理を専業とする私たちの出番が来ているからだ。それが(社)日本建築家協会第3期の出発点だと考えたい。