今一度「建築家」の原点に戻って

中島 一

(愛知工業大学名誉教授・前彦根市長)
中国の諺に、飲み水を見た時は、必ずその井戸を掘った人を想い出せとある。
耐震強度偽装問題
 2005年11月17日、建築界に衝撃が走った。一級建築士が偽造した建築構造計算書を民間確認検査機関が見過ごし、耐震強度が大幅に不足するマンションやホテルなどが何棟も建築されていることが発覚した。社会の非難は偽装した姉歯秀次元一級建築士はもちろん、偽装を見抜けなかった関係者たちにも向けられた。
 さまざまな問題や矛盾をはらんだ建築界は今、厳しい批判にさらされている。
 国土交通省は、11月17日、「姉歯建築設計事務所が、元請けの建築設計事務所もしくは下請けとして構造計算を行った、既に竣工済のものを含む20件の建築物について、当該事務所が構造計算書を偽造していた可能性があることについて、建築確認検査を行ったイーホームズ(指定確認検査機関)から、国土交通省及び特定行政庁に報告がありました」「東日本住宅評価センター(指定確認検査機関)が建築確認を行った別の1件(工事中)についても、建築主から情報提供を受け、機関に報告を求めたところ(11月)11日までに同様の偽造の疑いがあることを確認したところです」「これらの21件のうち14件については、偽造された構造計算が、設計者等によるチェック、指定確認検査機関の確認検査段階、施工段階に是正されず、そのまま竣工している懸念があります」−と発表し、社会問題に発展してる。これをうけ、11月25日付け、(社)日本建築家協会、(社)日本建築士会連合会、(社)日本建築士事務所協会連合会では、「構造計算書偽造問題について」として、建築設計事務所による構造計算書偽造問題が発覚し、大きな杜会問題を引き起こしていることについて、建築設計に関係する団体として厳粛に受けとめております−とし、本来建築物の安全性を確保し、国民の生命、財産を守るべき立場の姉歯元・一級建築士が、自らの責任を放棄し基準に満たない建築物を設計し、居住者等に対して多大な被害を生じさせ、国民を不安におとしいれる行為をとったことは、全く許されるべきことではなく、あってはならないことでありますと声明。
 一方、地震強度偽造だけに目を奪われてはならないと、構造設計家・東京電機大学今川憲英教授は、『文芸春秋』2006.2において、「耐震偽装マンションは日本病」だとして、事件の「主犯」は、データを偽造した姉歯元一級建築士のように見えた。だが、彼は確かにキーパーソンの一人であったが、単なる「実行役」に過ぎなかったと述べている。
都市居住とは−
 ところで都市というものは、何十年も、あるいは何百年もの長い時間をかけて、だんだん形づくられていく芸術的制作品のようなものです。都市の性格もまた、何十年も何百年も、ときには何千年もの長い時間をかけて特徴づけられてくるもので、この創作の主役になる人間も何代、何十代に亘り、その時々の社会的・経済的あるいは、政治的環境条件のもとで、時には血をもって、また時には歓喜の栄光の中で一歩一歩その時代の最善と思われる夢と理想のイメージを積み重ねて創りあげてきたものです。だからそれぞれの時代の人びとの息吹きが、何処かに刻みこまれている筈です。都市とは終着点のない芸術品とでも言ったらよいのかもしれません。あるときには苦しみ、あるときには歓喜に酔い、大火災・地震に遭い、まことに不滅の生命をもっかのように生きながらえてきているのです。
現代の醜さへの対応
 人びとは、自分の住んでいる町が、激しい息吹きの中に生き続けていることにはあまり気付かずに、現代の醜さのみが実体であるかのような錯覚に陥り、塵、騒音、外気温、雑踏、無秩序、煤煙などの一つ一つの現象だけをとりあげ、自らがその原因の一員であることを棚上げして、自治会メンバーでもないその道のタレントまで総動員して騒ぎたてている。社会環境問題が、本当に自分たち市民の行動とは関わりなしに起きているかどうかを振り返って考えることもなしに、他人から与えられた悪であるかのような印象が往々にしてまかり通ってる。だからといって現在住んでいる市民の大部分の人びとが、とてもこの都市では生き残れないものと思って、狼狽して逃げ出しているわけでもないのです。しかし、日本人の政治・社会関心度は、中央集権から徐々ではあるが地方分権への改革は進んではいるものの、官庁依存思想からあまり成長を示しておらず、無関心すぎるのも困るが、市民としてもっと冷静に周囲の環境条件を考えれば、まだまだ解決方法がいくらでもあるものです。
 都市の中に住み続けていくには真の意味の近隣協同体(コミュニティ)意識が養われていく必要がある。
それでは建築とは−
 2004年の建築界のテーマといえば、新しい超高層建築が提供する新たな刺激であったと言えるでしょう。それらの多くは思いもかけないほど新しい形態をしており、葉巻形あり、割れガラスの断片のような形もありといった具合です。
 ところで、建築家の隈研吾氏が、2004年に刊行した同名の自著で提唱した建築観、[負ける建築』があります。それによると、都心に屹立して巨大さや構造的な強さを誇示する高層建築群やサラリーマンが多額のローンを組んで購入する郊外の一戸建て住宅などを「勝つ建築」としてとらえ、それとは異質な建築のあり方を目指したものなどです。この主張の背景には、画一的なデザインや重い金銭的負担によって、都市生活者のライフスタイルを硬直させ、また周囲の環境を圧迫してきた従来の「勝つ建築」の価値観が、阪神・淡路大震災、テロ事件、「9.11」といった近年の大きな社会的なカタストロフによって脆さを露呈したという認識がある。それに代わって周囲によく馴染み、さまざまな外力を受け入れる柔軟な建築を目指すべきだと主張します。建築家個人の美意識よりは、社会との対話やコンセンサスを重視し、またバブル期の装飾過剰なデザインを戒め、周辺環境への配慮を強調している点では一種のサスティナブル(持続可能)な建築の提唱と言えます。その視線は現在ばかりでなく、デ・スティル、ルドルフ・シンドラー、村野藤吾らの過去の建築作品の再評価に対しても生かされており、今後の展開が期待されます。
あらためて『建築家』とは−
 ところで、さかのぼれば、ギリシア語のアルキテクトーンにまで到着することになります。つまり、これは職業の名称ではなくて、地位の名称なのです。
 紀元4世紀、ローマの建築家ウィトルーウィウスの建築に関する世界最古の文献の中での「建築に関する10章」という標題のこの文献の内容を再検討すると、第一章三の一によると、「建築術の部門は三つである。…家を建てること、日時計を作ること、機械を作ること」とある。
 時は流れ、その技術の守備範囲が分化して、建築家が家を建てる技術の専従者になったにしても、その精神は「偉大な技術者」や「技術的総括者」であるべきでしょう。西欧諸国で“建築家"の地位が高いのは、そんなところに一因があるといえるでしょう。
 建築家が質の高い建築を目指すのであれば、それは単なる家を建てる技術者に止まってはいけないことを痛感させられます。
 日本建築家協会『建築家憲章』(平成元年7月19日制定、平成16年5月26日、平成17年5月27日改訂)には、建築家は、自らの業務を通じて先人が築いてきた社会的・文化的な資産を継承発展させ、地球環境を守り安全で安心できる快適な生活と文化の形成に貢献しますと訴え、(創造行為)一建築家は、高度の専門技術と芸術的感性に基づく創造行為として業務を行います。とし、(公正中立)一建築家は、自由と独立の精神を堅持し、公正中立な立場で依頼者と社会に責任を持って業務にあたります。(たゆみない研鑽)一建築家はたゆみない研鑽によって自らの能力を高め、役割を全うします。最後に、(倫理、堅持)一建築家は、常に品位をもって行動し倫理を堅持します。とし、社団法人日本建築家協会(JIA)会員は、上記憲章のもとに集う建築家であり、JIAは会員の質と行動を社会に保障するものです。一と結んでいます。
 建築家、建築士(一級・二級・木造)・設計士・設計業者など、建築設計に携わる人たちの呼称はいろいろある。ともあれ、「建築家」という肩書きは重い。少なくとも、尊敬の対象、社会的地位の高さを示す言葉です。それでも「建築家」という言葉は、どんな人でも名乗ることができる。建築士の資格を有す、有しないに関わらず、人柄や作品において尊敬すべき人でも、世の中からひんしゅくを蒙るような人でも、専業の設計者でも、ゼネコンの設計者でも「建築家」と名乗ることは、全く自由なのです。
 そのことについて、誰も咎めだてする人はいません。
 こうした意味不明な言葉が、今後ますます流行語のように使われることに対し、「建築家」という言葉は、マスコミでもあまり使っていないようである。
最後に一建築界信頼回復について−
 昨年11月17日に発覚した構造計算書偽装事件。失墜した社会的信用を取り戻すためには、建築界全体の問題として、危急に取り組まなければならない。1.偽装を見抜けなかったシステム。2、発注者の不信。3.改ざんできる構造計算プログラム。などなど…そして改めて「建築家」の原点に戻って…。(多くの文献資料を.参考引用させていただきました。.謝意を表します。)