JIAと私B

JIA戦後の混乱期から現在へ
田邊 尚美
 1987〜1988年度 JlA東海支部副支部長
 1988年度      JIA本部理事
 1990〜1991年度 JlA東海支部副支部長
 1991〜1992年度 J1A本部理事
 1994〜1995年度 JlA本部理事
 1994〜1995年度 JlA東海支部支部長
 1996年度〜    JlA岐阜地域会相談役
 2000〜2001年廣 JlA東海支部監査
岐阜に来て
 1953年春、戦後の混乱期からそろそろ復興期に入ろうとする明るさが垣間見えるような時代であったが、専業建築設計事務所の求人はほとんどなかった。そのような時、恩師が、友人が岐阜にいるので訪ねてみてはどうかと、当時の『新建築』に掲載された作品を見せてくださった。その作品と設計者にひかれて落ち着いたところが岐阜であった。その設計者こそ、私が師と仰ぐこととなった坂田美郎氏である。
 話はとぶが、私が見た当時の岐阜は、美しい山と川に抱かれた自然に恵まれた街であった。一方、市電が走り、デパートがふたつあり、その中心街には人があふれ、活気に満ちあふれた街でもあった。この静と動を兼ね備えた街の姿は、20年前の東北仙台を思い浮かばせた。私が幼少期を過ごした仙台は、清い広瀬川の流れが青葉山の裾をめぐり、中心街には同じようにふたつのデパートがあり、市電が走っていた。このことが、坂田先生の魅力とともに、また私を岐阜に縛り付けてきた要因であったかもしれない。
 爾来50有余年、すっかり岐阜の住人となり、遠眼鏡で天下の形勢を覗く今日この頃である。このような私に建築と建築家の在り方を教えてくださったのが、坂田先生であり、また岐阜を中心としたクライアントの方々である。もうお一方を加えさせていただければ、当時岐阜に拠点を構えておられた入江雄太郎先生のことを申し上げねばならない。私が岐阜県庁の役人として在籍中、建築行政を担当していた時である。入江事務所から提出された設計確認図書に構造のミスを指摘させていただいたことがあった。当時は(今でもそうかもしれないが)、特に構造では設計事務所の名前を見てめくら判がおされていた時代である。しばらくして入江先生から、当時の長良川ホテルにお招きを受けることとなった。
 入江先生は丁重に感謝の言葉を述べられ、構造の大切さと建築家の在り方を身近にお話しいただけた。この時のお話とお姿は、私共建築家の鑑として、今も大切にさせていただいている
JAAに入って
 さて、坂田先生のご推挙により、1966年、旧日本建築家協会に入らせていただけたことにより、私と建築家の集まり(JAA)との関わりが始まった。当時の岐阜には、建築家協会の会員としては、先ほど申し上げた入江先生をはじめ、玉田冨雄、堀池康夫、坂田美郎、佐藤英夫の諸先生がおられるだけであった。東海支部では月に一回名古屋で会合が開かれていたが、若輩者の私にはいかにも敷居が高く、ついスリーピング会議として時を過ごした事を覚えている。その敷居が少し低くなったのは、1967年に家協会で企画された世界一周(欧米)旅行に、全国からの諸先生方のお供をさせていただいてからである。特に東海支部の輿先生、森先生、菊池氏(ともに故人)には、格別のご配慮をいただいたことが忘れられない。家協会の会員であったからこそ得られた恩恵の大きさに、今も感謝している。
JlAへ
 とんで1987年、丹下健三先生のご唱導により、現在のJIAが、建築家職能の確立を目指すわが国唯一の団体として生まれることとなった。式典は赤坂のブリンスホテルで行なわれたが、出席者全てが建築家協会の大きな未来を感じた式であった。
 それから2年後の1989年、名古屋で第1回の全国大会を開催するなど、東海支部の意気とその結束はすこぷる高く、全国に先駆けて4地域会を発足させるなどすばらしいものがあった。特に大会をリードされた、税田公道第2代東海支部長の活力は目をみはるものがあり、支部草創時、遠くは九州、東北に、近くは近畿、北陸にと、まさに東奔西走、新家協会の創設に尽くされた姿が忘れられない。私も度々お供をさせていただいたが、そのときの各地域で活躍する建築家との真撃な交流が、前後2回、東海支部が主催した全国大会での成功に大いに寄与したと思われる。
 現在JIAは多難な問題を抱えているが、かかる時こそ心ある会員相互の話し合いと団結が求められる時かもしれない。お互いにくじけず倫理ある建築家の職能確立のため、がんばっていきたいと思っている。