心と建築 第三回
心の働き
武田 雄二
(愛知産業大学造形学部建築学科助教授)
これまで、〈感覚〉を心の入口として捉え、〈感覚〉による認知の特性について述べてきた。その中で、〈感覚〉に与えられる〈刺激〉と〈反応〉の一般的な関係を説明した。また、〈恒常性〉・〈冗長性〉・〈共感覚〉・〈注意〉・〈アフォーダンス〉についても説明した。
 さらに、人間の持つ〈感覚〉と他の生物の持つ〈感覚〉による認知が異なることについても触れた。このことは、人間を含む生物が認識する環境はそれぞれ異なることを示していると考えられる。
 今回は、それらの知見を基礎として、人間の〈心の働き〉について考えたい。そのため、〈心の働き〉の二面性と「心が求めるもの」および「心が捉えるもの」について述べる。なお、心が求めるものについては〈快〉・〈豊かさ〉を、心が捉えるものとしては〈安心感〉を考える。

表1 〈心〉の働きの二面性
心の働きの二面性
 先に述べたように、人間の〈心のしくみ〉を内観や人間の行動の観察によって明らかにしようとする努力が行われている。一方、〈心の存りか〉を脳と定め、〈脳のしくみ〉から〈心のしくみ〉を明らかにする努力も続けられている。 
 ここで、〈心の働き〉について考えると、「感じる」ことと「考える」ことがあると思われる。あえて、これらの〈心の働き〉を〈こころ〉と〈あたま〉と名付け、〈心の働き〉をこれらの二面から捉える。その概要を表1に示した。
 ここで示したことは近年、人口に膾炙している〈右脳〉と〈左脳〉の機能区分とも相通じるように思える。このことに関して言えば、実際にその働きが右脳と左脳にあるのかはわからない。しかし、人々は〈心の働き〉として、二つの異なった様相を感じ取っている。
 そして、人々はこれらを「右脳の働き」および「左脳の働き」という言葉を使って表わしていると考えられる。
心が求めるもの
(1)〈快〉はあるのか
 一般に、人間は〈快〉を求めると言われる。ここで、少し考えてみたいのだが、果たして〈快〉はあるのだろうか。〈不快〉は確かにあると思う。
 冬場など、気温が低くて体温を維持するのも困難なとき、きっと人は〈不快〉を感じるだろう。それは苦痛と言った方がよい場合もある。また、空腹で動くことさえ難しいときにも〈不快〉を感じ、生命の危機すら感じるかも知れない。
 このような状況で、適当な暖房設備が働いたり、食事が与えられると、〈不快〉な感じは消えていく。〈不快〉な感じが消えていくとき、人は〈快感〉をおぼえるのだと思う。
 しかし、暖房が効きすぎて、気温がどんどん上昇したり、満腹を通り越して腹に食べ物を詰め込むようになったとき、果たして人は〈快〉を感じるのだろうか。〈不快〉から開放してくれた、熱や食料などの〈刺激〉は、それが過ぎると新たな〈不快〉をひき起こすことになる。
 このような現象を表わしたのが図1である。この図は〈不快〉の原因となる〈刺激〉の不足が解消されるとき、人は〈快感〉をおぼえ、それが過ぎると〈不快〉を感じることを示している。ここで、〈刺激〉の不足による〈不快〉の状態を〈飢〉とし、〈刺激〉の過多による〈不快〉の状態を〈飽〉としている。また、〈不快〉を感じない状態を〈憶〉としている。注1
 ここで言いたいのは、〈不快〉は確実に存在するけれども〈快〉は存在せず、〈不快〉な状態から開放されるときに〈快感〉をおぼえることである。そして、〈不快〉を解消した〈刺激〉が多くなりすぎても、それは新たな〈不快〉を産み出してしまうことである。
 このことは、仏教で言われる「足るを知る」に通じるものがあると思う。
(2)〈豊かさ〉とは何か
 ここで、〈感覚〉における〈刺激〉と〈反応〉の関係から〈豊かさ〉を考えてみたい。連載の第1回で示したように、ある強度の〈刺激〉の範囲の中では、〈反応〉の大きさは〈刺激〉の増加につれて増大する。
 しかし、〈刺激〉を強くすることによって〈反応〉の大きさを得ることは、〈感覚〉の鈍化につながると考えられる。このことを〈刺激〉の強度と〈反応〉の大きさの関係で表わしたのが図2である。
 この図では、常に強い〈刺激〉を受けることにより、閾値間の間隔が縮まるとともに、生じる〈反応〉の大きさも小さくなることを示している。その結果、〈反応〉を生じさせるためには、より強い〈刺激〉を必要とするという循環を産み出す。
 このように考えると、〈豊かさ〉を感じるためには、わずかな〈刺激〉の違いを感じ取る〈感覚〉の鋭敏さが重要であると思われる。すなわち、自身をとりまく環境の変化を敏感に感じることができるように、〈感覚〉を鋭敏にすることが〈豊かさ〉を実感することにつながると考えられる。
 「茶道」や「香道」など、一般に〈芸道〉と呼ばれる分野における鍛錬は、人間の〈感覚〉の鋭敏さを磨く。そして、わずかな〈刺激〉の違いを感じ取ることによって、〈刺激〉の強さや与えられた物の多さによらずに〈豊かさ〉を実感する能力を高めると思われる。
 また、「もみじ狩り」などは、実際に「もみじ」を刈り取って自分の物とするのではなく「目で狩る」のであり、自然の美を感じ取って、その〈豊かさ〉を実感することであると思う。

図1 〈心〉の状態


図2 〈感覚〉の鈍化


図3 〈安全性〉・〈快適性〉・〈嗜好性〉
心が捉えるもの
 建築物に求められる心理的な要素として〈安心感〉は重要である。そして、それはそこにいることが安全だと感じ取ることが前提になると思う。
 ここで、〈安全性〉・〈快適性〉・〈嗜好性〉についての関係を示したものが図3である。この図は、〈安全性〉があって〈快適性〉や〈嗜好性〉が成り立つことを示している。  これは当たり前のように思われるが、以前に起きた「ピアノ殺人事件」注2などは建築物の〈快適性〉や〈嗜好性〉は満たされていても〈安全性〉がなかった例として考えられる。
 図4はイタリアにあるアッシジの街角でフルートを吹く人を撮ったものである。もちろん周りにはその演奏を聞いている人たちがいる。このような情景が見られるのも、人々は自分たちを取り囲む環境の〈安心感〉を感じ取っているからである。
 この他にも、ヨーロッパの街ではいたる所にカフェテラスがあり、多くの人々がくつろいでいる。そのような光景に出会うのも、城壁で囲まれた街における、その周囲の〈安心感〉を人々の〈心〉が感じ取っているからだと考えられる。
 生垣や低い塀で囲まれた伝統的な日本の建築物の在りようにも、それが建つ周囲の〈安心感〉の認知が必須である。

図4 アッシジの街角で
注1 参考文献2)の中で著者の西原克成は、恩師三木成夫の説を紹介している。具体的には「“われを忘れる”状態とは夢中になることだが、全くの健康でかつ満足した状態では、身体は完全に意識されなくなる。この状態は「憶の状態」と呼ばれる。」と述べている。本稿においても、この語を用いて〈不快〉を感じない状態を〈憶〉と名付ける。
注2 ある集合住宅において、弾かれるピアノの音に腹を立てた住人が階下の住人を殺してしまった事件。
【参考文献】
1)角田忠信:『脳の発見 脳の中の小宇宙』、大修館書店、1985
2)西原克成:『顔の科学 生命進化を顔で見る』、日本教文社、1996