JIA東海支部の半世紀D
JAAからJIAに至る頃
税田公道(終身正会員)
「全事連」、公取委に「事業者団体」 として届出
 (社)全国建築士事務所協会連合会は公正取引委員会(以下、公取委)からの「事業者団体」の届け出と同会制定の「業務及び報酬規定」の廃止に関する指導にしたがって、1975年(昭和50)9月18日、同「規定」を廃止し、同年11月6日、独占禁止法(以下、独禁法)の「事業者」団体の届け出を公取委に提出した。
建築士法第25条の規定の発動を要望
 1975年(昭和50)の公取委の行政指導に端を発して、従来の建築家協会ほか建築関係団体の有していた「報酬規程」がほとんど無効となっている状況の中で、その機能に代わる報酬基準の策定を建築士法第25条の規定の発動によって行うよう、関係7団体は、同年11月建設大臣あてに要望するに及んだ。
公取委からの「警告書」に対して拒否回答
 1975年(昭和50)7月25日、建築家協会の「報酬規程」、3会制定の「競技規準」および「日本建築家協会憲章」の制定の内容が、独禁法第8条第1項第4号の規定に違反する疑いがあること、よって協会が遅滞なく独禁法第8条第2項の規定に基づく届け出をするとともに、前記独禁法違反の疑いのあるものについて自主的に必要な措置を速やかにとることを強く求めるとする公取委からの「警告書」を受けたことにより、公取委当局との折衝を重ねながら、対内的には委員会、理事会の審議を通じて、同年11月26日には臨時総会を開催。そこでの討議をふまえ、同年12月2日、同「警告書」の趣旨に沿い得ない旨の回答書を公取委員長あてに提出した。
警告書への回答文
公正取引委員会 委員長 高橋俊英殿    昭和50年12月2日
(社)日本建築家協会会長 大江 宏  先に昭和50年7月25日付、公審第137号をもって御通達くださいました警告書、並びにその後貴委員会御当局と本協会理事者との間で行なわれた数次にわたる折衝を通じて受けました御指導に関し、本協会は11月26日臨時総会を開催して協議いたしましたので、下記のとおり本協会会員の総意を御伝達申し上げます。
注)以下の文章は長文であるため、省略しました。必要とされる方はJIA事務局へご照会下さい。
第7回大会開催
1976年(昭和51)10月23日、24日
場所:ナゴヤキャッスルホテル(名古屋市)
テーマ:「建築家の報酬」
・ 「全建築界の皆様に訴える」を発表。
・ 官公庁設計業務発注方式の適正化に関する要望書を提出
1977年(昭和52)
建築家職能法としての設計監理業務法(案)要綱骨子等決定
中村順平氏、死の直前に戦前士法の 資料を寄贈
 中村順平氏は、大正年間より曽根・中条建築設計事務所のチーフ・デザイナーであったが、中条精一郎氏やもう一人のチーフ・デザイナーである高松政雄氏が建築士法制定運動のために献身的な努力をしたのに対し、中村氏はその運動に表立ったかかわりを持たなかった。その中村氏は1977年(昭和52)5月24日、90歳で逝去されるが、その直前に人を介して建築家協会に寄贈した資料の中には、1927年(昭和2)に議会に提出された建築士法案と建議書(「中村順平蔵」と自筆捺印)があった。つまりそれを中村氏は50年近くも大切に保存していたのである。彼は建築士法制定運動に表立ってはかかわらなかったとはいえ、その精神の奥には、建築家のあるべき理想像を求めていく道程の一つとして「建築士法」があったのではないかと思われる。
パンフレット「建築設計者の選び方」作成
 1976年(昭和51)暮れ、建築家協会、士会連合会、全事連、設監連の4会は、官公庁設計業務発注方式の適正化に関する要望書を作成し、同4会支部を通じて都道府県および人口3万人以上の市に対して、その適正化運動を開始したが、その運動を具体的に推進する資料として小冊子「建築設計者の選び方 より良い公共建築をつくるために」を4会の名において1977年(昭和52)6月に作成し広く利用していくこととした。
 尚、本小冊子は1985年(昭和60)4月にいたって、その改正版となる。
第8回大会開催
1977年(昭和52)10月6日〜8日
場所:大阪プラザホテル
統一テーマ:「新しい建築家像を求めて」
1978年(昭和53)
第9回大会開催
1978年(昭和53)10月26日〜28日
統一テーマ:「社会と建築家」 3つの柱:住宅問題、地域問題、公共建築問題
1979年(昭和54)
全国建設業協会などの業界7団体に 対する反対声明
 全国建設業協会はじめ建設業関係7団体が、建築家協会および設監連がかねてから提唱してきた職能法としての建築設計監理業務法立法化に対して反対である旨の意見書を発表し、関係方面に提出したことに対して、1979年(昭和54)2月8日、それへの反対声明を発表した。
建設省告示第1206号
 建設省は、建築関係7団体の要望に応えるかたちで、1976年(昭和51)5月に「建築設計工事監理業務報酬調査委員会」(委員長、市浦健)を設置、建築士法第25条の規定の発動による報酬基準を定めるために必要な実態の把握等の調査に着手し、1977年(昭和52)3月にその報告を得た。
 この報告は、実態調査結果に基づいて業務報酬算定方式を提案するかたちのものとなっている。建設省では、この報告書を基礎として、各界各層から意見を聴取するとともに、関係団体との調整を進め、これらの結果を考慮して基準化作業を進めて原案を作成し、中央建築士審査会の同意を得た上で正式に決定し、1979年(昭和54)7月10日、それを官報に告示した。
公取委の審決下る
 1972年(昭和47)以来続いたいわゆる公取問題に関して1979年(昭和54)9月19日、公取委から建築家協会長ほかに審決が下されることによって、この問題は終了した。
[参考資料] ・ 機関誌『建築家』79号「公取問題」特集 ・ 『新建築』1979年11月号「公取委の審決を受けて」 ・ 『日経アーキテクチュア』1979年10月15日号「家協会は職能団体の筋を守れたのか『昔は●、今は○』の違反宣言審決を分析する。
第10回大会開催
1979年(昭和54)11月8日〜10日
・国会請願のための街頭行進を行う。
一般紙に全面「意見広告」を掲載
 1979年(昭和54)11月9日の第10回大会後の「業務法」制定のための国会請願のための街頭行進が企画されるという異常なほどの意気の高まりが執行部の一部にみられた中で、その街頭行進に合わせるかたちで、朝日新聞ほかの一般紙に建築家プロフェッションに関する全面「意見広告」を掲載し、一般の読者にわれわれの主張を訴えようという意見が出された。しかしそのためにはきわめて高額な広告料を必要とするため、そのような一過性のPRのために会の金を支出すべきではないとする意見が出され、結局、会員有志の募金によって、1979年(昭和54)12月2日と1980年(昭和55)1月6日の2回にわたって「プロフェッションとしての建築家の地位の確立」と銘打たれた「意見広告」が掲載された。
芦原義信氏、会長就任
「全事連」が「日事連」に改称
「建築設計監理業務およびその 報酬について制定
[参考資料] 機関誌『建築家』77春号
UIAアジア・オーストラリア地域 国際建築家会議を開催
 UIA日本支部である日本建築家協会は、1980年(昭和55)10月27日から29日の3日間、東京虎の門のホテルオークラにおいて、UIA第W地域国際建築家会議を開催した。テーマは「人間と都市と環境」で、この会議は1981年に「建築・人間・環境」をテーマにポーランドのワルシャワで開催されるUIA第14回大会に向けての第W地域での国際会議として1980年2月のマニラ会議に次いで開催されたものである。
 参加国は、オーストラリア、朝鮮民主主義人民共和国、香港、インドネシア、マレーシア、中国、フィリピン、大韓民国、シンガポール、モンゴル、日本。
1981年(昭和56)
藤井正一郎氏 「建築家のプロフェッション」発表
 建築家協会専務理事、藤井正一郎氏の論文「建築家プロフェッション」が1981年(昭和56)2月の「白井晟一研究V」に発表された。建築家のプロフェッションに関する歴史的社会的に見て包括的かつ長大な論文で次のような内容となっている。
一. 建築家のプロフェッショナリズムの発生と成立
二. プロフェッショナル・アンビバランス
三. 現代のプロフェッショナリズム
四. 日本の建築家のプロフェッション性
五. プロフェッションの法制化の必要性と限界
[参考資料] 『白井晟一研究V』(南洋堂出版)
「建築家憲章」制定
構造家懇談会設立
 1981年(昭和56)4月、全国の構造設計者の中核をなす第一線の構造家を糾合し、専門的職能集団として社会の要請に応えるため「構造家懇談会」が設立された。のち「日本建築構造家協会」と改名したが1989年(平成元)7月にいたり「(社)日本建築構造技術者協会」となる。