保存情報第53回
遺したい故郷の文化資産 揚輝荘 その1. 全体像 尾関利勝/地域計画建築研究所

聴松閣

揚輝荘北の庭園

■発掘者コメント
 大正から昭和の名古屋では都市計画がはじまり、城下町の都心化、周囲の田園地帯への工業進出、築港と運河による南部工業地帯形成、そして学校や社寺が城下町から移転し、郊外住宅地が覚王山から八事、瑞穂方面にかけて形成され、現在の都市構造の骨格がつくられた。
 1900(明治37)年、日泰寺が建立され、1907(明治44)年には月見坂まで市電が開通し、江戸時代から峠越えの月見の名所だったこの地が名古屋市民の信仰と行楽の地に生まれ変わる。
 1929(昭和4)年には覚王山から東山に至る一帯で田代区画整理事業による本格的郊外住宅地づくりがはじまり、山林都市を提唱した黒田了太郎、ハワードの田園都市論を理想とし、後に東京をはじめとする日本の都市計画に功績を残した石川栄耀らがこの区画整理事業に活躍した。
 日泰寺の東、敷地約3.3ha(当初)の揚輝荘は、松坂屋創業家第十五代伊藤次郎左衛門祐民氏が、1918(大正7)年から昭和前期にかけて城下町からの移築を中心に建物と庭園とを一体に造営した名古屋の郊外別荘の代表作であった。
 1939(昭和14)年頃の最盛期には尾張徳川家からの移築を建築家鈴木禎次が巧みにアレンジした伴華楼、伊藤家から移築した座敷、三賞亭,、山荘風の聴松閣はじめ大小30棟もの建物が、雑木林を活かした庭園とともに構成されるユニークな別荘で、名古屋財界の社交場、海外や皇室など貴賓のもてなし、アジアからの留学生が多数寄宿した国際交流の場であった。
 この揚輝荘も保存と引き替えに敷地の一部がマンション開発されることになったが、揚輝荘の中枢部分、南北の庭園と建物(敷地約9.5ha)が名古屋市に寄贈されて遺されることになり、保存・活用に向けて、市民グループ「揚輝荘の会」が献身的な活動を続けている。

設  計 鈴木禎次(伴華楼)   建築主 伊藤次郎左衛門祐民    施工者 竹中工務店
所在地 名古屋市千種区法王町 建築面積 約9,500u(保存後)
データ発掘(お気に入りの歴史的環境調査) 伝馬通り徘徊―デコモダニズム風看板建築 北野哲明/北野建築計画工房

漢方薬・大黒屋

履物店さくらや本店

阿倍清明ゆかりの神社

余生を生きながらえる建物

受胎調節説明指導とは
■発掘者コメント
 岡崎市の中心市街地、康生町を東西に連なる伝馬通りは、二十七曲の呼称で有名な東海道岡崎宿の動脈であった。戦後、焼け跡区画整理で直線に改造されたが、所々戦前風の姿を垣間見せる。
 妻入宿場町屋建築の漢方薬店大黒屋に掲げる看板はいかがなる作法だったのか。最近の台風で看板が飛ばされ、突如現代に再度現れたデコ風の履物店。なんとなく余生を生きながらえる繰型と透かしパラペットが特徴の建物。清明神社の撮影直後に25年連れ添ったカメラが壊れてしまった。祟りだったのか。
 かつて、中心市街地であった岡崎市東康生地区は地元商業者の再活性化活動が模索されているが、行政の不義理もあってか、実を結ぶ気配はない。
 この通りも、通う度に、どこか姿を変えている。そんな中、いつくしむ手立てもなく、この子たちも、今の世代の終わりとともに消え去ろうとしている。
 地図はありませんが、名鉄東岡崎駅から北へ歩いて10分、岡崎市東康生地区・伝馬通り界隈を歩いてみましょう。