再見 東海地方の名建築家 最終回

優れた建築を設計した 寡作の建築家/桃井保憲
瀬口 哲夫
(名古屋市立大学芸術工学部長・工学博士)
1. 桃井保憲の4つの代表的建築作品
桃井保憲(1885〜1937)
 名古屋市中区の外堀通に面して、名古屋銀行協会(旧名古屋銀行集会所)の前の建物を記憶している人は少なくないのではなかろうか。茶褐色のタイル張りの落ち着いた建物で、かなりの腕の建築家による設計であることを思わせるものであった。その設計者が桃井保憲である。  改築されてしまったので、現在では往時の姿を見ることができないが、新しい建物の玄関前広場に旧建物の一部がモニュメントとして残されている。
 桃井の設計した代表的建物をあげると、名古屋銀行集会所(1931年)を筆頭に、愛知銀行本店(1928年)、三重県議会議事堂(1930年)、日本貯蓄銀行本店(1931年)をあげることができる。
 これら4つの建物に共通しているのは、アーチを上手に使用していること、装飾的にテラコッタが用いられていることで、手堅くまとめられている。
2. 諏訪湖の畔で育つ神官の息子/1885年〜1908年
 桃井家は、諏訪神社下社の神官の家系で、先祖は、17世紀前半までさかのぼれるという。桃井保憲の父保之は、諏訪神社の禰宜太夫を務めた。しかし、明治維新後の1871(明治4)年、禰宜太夫を免じられ、下諏訪学校の学事掛を務めることになる。その後、諏訪神社の主典に復帰し、面目をほどこした。
 保憲は、父保之と母まにの長男として、1885(明治18)年2月6日に長野県下諏訪町で生まれ、諏訪湖の畔で育った。3人の弟と6人の妹がいた。  保憲は長野県立諏訪中学を経て、創設されたばかりの名高工建築科に入学し、1908(明治41)年7月、第一回卒業生(1911年、16名)として卒業した。
3.愛知県営繕係及び名高工助教授 時代/1908年8月〜1914年
 桃井は、卒業後、1908(明治41)年8月に愛知県営繕係に奉職。この頃の愛知県営繕係は、これまでの人員が一新され、西原吉治郎などを中心に、多くの建物を建築しようとしていた時期にあたる。
 愛知県在職時に、西原などのもとで、桃井が担当した建物としては、すべて木造建築であるが、県立第一中学校、県立第一高等女学校、県立愛知病院、さらに、瀬戸町や田原町の警察分庁舎がある。
 ところが、1911(明治44)年に退職し、母校名高工建築科の非常勤講師を務め、さらに、1912年、助教授(設計担当)に就任する。1909(明治42)年から同級生の佃忠蔵が助教授(構造担当)を務めていたが、1912年に辞めているので、その後任ということであったかもしれない。ところが、桃井の助教授は長く続かず、翌年の1913年3月に退職し、1914年1月まで非常勤講師を務める(文1)。
 退職の理由は明確ではない。1913(大正2)年6月より、三井銀行名古屋支店の技士となるが、このような桃井の動きは、名高工教授で、三井銀行名古屋支店の設計者で、かつ桃井の恩師である鈴木禎次の存在を抜きには考えられない。
4. 鈴木禎次のもとでの フリーランス時代/1914年〜1928年
 名高工の学生時代、その設計能力の高さから、桃井は恩師の鈴木禎次に見込まれ、鶴舞公園で開催された第十回関西府県連合博覧会(1910年)の奏楽堂の設計を手伝っている。この奏楽堂は別の形式の奏楽堂に建替えられていたが、近年、創建時の姿に復元された。彼は鈴木の教え子の中で図抜けた存在であった。
 さて愛知県営繕係を経て、名高工の教職を退職した桃井は、その後、恩師鈴木禎次の設計を手伝うことになる。鈴木禎次は自分の設計した建物を建築する際、建築主側に弟子を送り、実施設計や現場監理などを担当させているが、桃井もこうした役割を引き受けた。従って、形の上でフリーランス的な存在であるが、実際はその都度、建築主側の会社に嘱託職員などとして雇用される形をとっている。
 具体的には、桃井保憲はまず1913(大正2)年6月より鈴木禎次の設計になる三井銀行名古屋支店の現場監理を担当。この建物はレンガ造で、名古屋の目抜き通りである広小路通に面して建てられた。  1915(大正4)年に三井銀行の仕事が終わると、翌年の1916年3月より松坂屋いとう呉服店(上野)旧館の現場監理を担当する。
 桃井にとって、記念的な建物は、次に担当する、大津通につくられた伊藤銀行中支店(1921年)である。彼にとっては初めてのRC造建築で、この建物に関わることで、技術的な知識を吸収できた。この経験は、桃井が建築事務所を自営してから大いに役立つことになる。

愛知銀行本店(1928年)

日本貯蓄銀行本店(1931年)

名古屋銀行協会(1931年)
5. 日本貯蓄銀行を中心に活躍した 桃井建築事務所時代/1928年〜1937年
 桃井は1928(昭和3)年11月、桃井建築事務所を設立する。桃井が自分の事務所を設立したのは愛知銀行竣工(同年8月)がきっかけであろう。この建物は愛知銀行技師として、桃井が中心になって設計・監理したもので、伊藤銀行中支店の成果を活かした。RC造建築について自信を深めたと思われる。内藤多仲が構造設計顧問、藤村朗が設計顧問で、清水組の施工。桃井はこの仕事を通して人的な関係も築けたのではなかろうか。
 独立後の桃井建築事務所は日本貯蓄銀行(本店は名古屋市)の本支店の設計を数多く手掛ける。例えば、1931年の本店を始め、本町支店、東郊通支店、大曽根支店、熱田支店、吹上支店、津支店、一宮支店、新栄支店、堀田支店、豊橋支店、津島支店、日本貯蓄銀行寄宿舎など12件ある。
 これら以外には、日本硝子竃{館、山口小学校講堂、北里小学校講堂、砂糖組合講堂などの設計をしている。
 こうしてみると桃井建築事務所は、日本貯蓄銀行(注1)を大口のクライアントとしていたことがわかる。日本貯蓄銀行(文2)は1922(大正11)年、名古屋にあった丸八貯蓄銀行、伊藤貯蓄銀行、明治貯蓄銀行の3行が合併してできたもので、初代頭取は鈴木兵衛であった。鈴木兵衛、神野金之助は明治貯蓄銀行系で、親銀行の明治銀行は、愛知銀行と近い関係にあった。ということで、愛知銀行本店を設計したことが、日本貯蓄銀行とのつながりを生んだと思われる。
 桃井建築事務所員として、名高工の後輩である西村勝や小野木修(後に、日建設計)などがいた。このほか、青木や伊藤正蔵といった所員がいたという。正月などには工務店の人の出入りがあったという。  1933(昭和8)年4月、桃井は専業建築家の職能団体であった日本建築士会(現在に日本建築家協会)会員になった。


三重県会議事堂1階平面図(1930年)
6. 桃井の人となり
 1913(大正2)年、父保之が諏訪神社を62歳で退職。以後、卒業して5年目の保憲は桃井家の長男として、年老いた両親と幼い弟妹の面倒をみた。
 その後、桃井保憲はゑんと結婚し、二男一女に恵まれる。長女昌子によると、子どもにとっては、優しい、子煩悩な父親であったという(注2)。徳川町の家は木造二階建てで、1階には、玄関、10畳と6畳の2つの応接間、食堂、台所、女中部屋、ベランダがあり、地下室があった。また、当時としては珍しいピアノがあった。2階には、ベッド付の寝室、子ども室(洋間)、両親のための日本間(8畳間)、浴室、納戸などがあった。浴室が2階にあるのは、珍しい。
 保憲は、建築工事などにおいて誠実で、他人任せにせず、自ら徹頭徹尾責任をもって監督をした。このように責任感の強い人であったが、同僚部下に対してははなはだ親切であった。趣味として観世流謡を習っていたという(文3)。
 長女の昌子が旧制女学校1年生のときの1937(昭和12)年8月に、保憲は53歳で急逝する。亡くなる数日前まで、事務所で仕事をしており、惜しまれながらの死であった。
7.おわりに
 桃井保憲は、その実績から、将来を嘱望された建築家であった。恩師鈴木禎次のもとで設計をこなし、独立してからは、日本貯蓄銀行関係の建物を中心に設計。日本貯蓄銀行本店を始め、名古屋銀行集会所(名古屋銀行協会)、愛知銀行本店、三重県議会議事堂といった代表的作品を残した。これらの作品をみると、鈴木禎次の弟子の中で図抜けた存在であったことがわかる。
 桃井の作品で現存するものとしては、大垣市にある南陽倶楽部洋館。建築年は、明治末期から大正初期とされる(文4)ので、卒業後の愛知県営繕係や名高工助教授時代の作品の可能性がある。
注1 1945年5月の企業合同で、日本貯蓄銀行は不動貯金、安田貯蓄、大阪貯蓄などと合併し、新しい日本貯蓄銀行が設立された。戦後、協和銀行となる。
注2 桃井保憲さんの長女関昌子さんに伺った話
[参考文献]
文1 「名工大80年史」名工大80年史記念事業会、1987年
文2 協和銀行史編集室「日本貯蓄銀行史」1949年
文3 鷹栖一英「故正員桃井保憲君」、建築雑誌、1453〜1454頁、1937年11月
文4 東海近代遺産研究会編著「近代を歩く」ひくまの出版、1994年
文5 瀬口哲夫「名古屋をつくった建築家/鈴木禎次」150〜152頁、2004年
文6 瀬口哲夫「鈴木禎次及び同時代の建築家たち」104頁、20世紀の建築文化遺産展実行委員会、2001年
文7 三重県「三重県史 別編 建築」ぎょうせい、2003年
謝辞:関州明、昌子ご夫婦にお話を伺いました。感謝します。