新連載
博覧会と地域開発
再開発計画に組み込まれた リスボン国際博覧会
谷田 真
(名城大学理工学部建築学科講師)
再び博覧会に注目して
開催期間中は話題にのぼる博覧会も、閉幕後その関心は急速に薄らいでいく。今回より6回にわたり、そんな一過性の博覧会に再びスポットを当ててみたい。  
愛知万博では、開催に至るまで十数年に及ぶ紆余曲折のプロセスがあった。自然環境保全と地域開発との拮抗により、会場地も含め計画全体が大きく変えられたが、これまでの博覧会を振り返れば、地域開発のきっかけ事業として開催された博覧会は少なくない。そこで、地域開発と関連した博覧会を取り上げることで、博覧会が果たす役割について考えていく。  
1回目は、1998年にポルトガルで開催されたリスボン国際博覧会を辿る。

開催に合わせて整備された総合駅

会場計画と再開発計画
切望された再開発
90年代初頭、リスボン市東部テージョ川(スペインからポルトガルを抜け大西洋に注ぎ、リスボン市全域が面するシンボル的な存在)に面する約330haの土地(河川に沿って長さ5km、幅0.6kmの南北に細長い形状)は、老朽化した製油基地、ト殺場、兵器倉庫、ゴミ処理場、汚水処理場の立地により環境の悪化が表面化していた。EU通貨統合を控え、国の競争力を上げるためにも、早急な再開発が望まれていた。  
ポルトガル政府とリスボン市は、ここに職住一体の副都心を計画し、南北に細長い敷地の中央部に文化施設、業務施設、娯楽施設のエリアを、南北端部に住居、公園、スポーツ施設、サービス施設のエリアをゾーニングすることで、ビジネスセンターを中心としたコンパクトなまちづくりを目指した。博覧会はこのうちの中央部60haを使って展開され、副都心の主要エリアと重ねられた。  
ここには、20万人/日の往来が想定されており、不十分だった交通インフラの整備計画が、博覧会開催に合わせてまとめられた。地下鉄では既存線から開発地までを結ぶ7駅区間(ALAMEDA-ORIENTE EXPO 98)と鉄道駅同士を結ぶ2駅区間(ROSSIO-CAIS DO SODORE)、鉄道ではスペインから列車が乗り入れる総合駅(ORIENTE、バスターミナルとタクシーベイを含む)が、道路ではテージョ川の対岸から横断できる自動車道(VASCO DA GAMA BRIDGE)がそれぞれ計画され、いずれの交通インフラも副都心に限らずリスボン市全体に大きな恩恵をもたらした。
副都心の姿が想起される会場地計画
博覧会のテーマは「海洋−未来への遺産」である。テーマに沿って、雛壇状に配置された白い施設群は、どれもテージョ川に顔を向けているが、大通りを軸とした区画割と、交通インフラと関連した動線計画が、副都心を見据えた会場地計画となっている。  
会場内における全29施設の7割は恒久施設として計画され、このうち6割は使われ方も変わらない施設として、会場の中央付近に配置された。こうした整備方針によって、閉幕後のまとまった景観と用途が、計画時点で明確に打ち出されることになる。
@短期間で用途転換される施設  
恒久施設の中で、閉幕後用途が変わるために、改修工事が必要とされた施設の一つを取り上げる。  「Sun Entrance」は、総合駅が直結するメインゲートとして計画されたが、閉幕後はショッピングセンター(VASCO DA GAMA SHOPPING CENTER)を主とした利用が考えられていた。短い工期で手戻りのない変更が求められた結果、開催時のゲートとしての要求に対しては、本体施設と切り離し可能な鉄骨による造作や軽量鉄骨による間仕切で仮設的に対応し、閉幕後のショッピングセンターとしての要求に対しては、必要となる外壁や床をRC造で先行整備し、開催時はスケルトン状態で放置されるかたちが取られた。結果、開催時には違和感のある姿を露呈させることになるが、そこには閉幕後を主に考えた基本姿勢が明快に示されている。Aリスボン国際博覧会独自の出資方法  
通常、地域開発と関連した博覧会では、その整備を滞りなく進めるために、独自の組織が設置される。リスボン国際博覧会でも、Parque Expo 98(ポルトガル政府95%、リスボン市5%の出資会社)という組織が、博覧会の運営機関の役割を担うEXPO98と、土地の処分機関の役割を担うExpo URBEの持株会社となって、開催前後の権利移行などの業務を遂行している。  
この組織により、仮設施設の場合は、閉幕と同時に建物が撤去され、土地のみが売却されるが、恒久施設の場合は、閉幕後に土地と建物がセットで売りに出され、新たな所有者が決定する。しかしこのタイミングでは、閉幕後の所有主体が、当初の施設整備方針に口を挟むことはできない。  
そこで、リスボン国際博覧会独自の出資方法として、閉幕後の所有主体が建設時に、共同出資者という形で大株主(Parque Expo 98)とともに計画に加わり、閉幕後単独で土地と建物の所有主体となる方法が取られた。これは閉幕後の所有主体の要望が、当初の施設計画に繁栄できる出資方法であり、閉幕後を主に考えたシステムと言える。ただし、開催以前から、姿の見えない閉幕後の開発地へ投資するというリスクがあり、民間企業からの出資者を募ることは容易でなく、結果的に公共団体を中心とした出資者が多くなってしまうという課題を抱えている。

用途転換されたショッピングセンター
以前から存在したまちのように
閉幕後から3年が経った開発地を歩いた。職住のバランスがとれた副都心に成長しており、処理施設等が建ち並んでいた従前の劣悪な環境は全く感じられない。  
当初よりリスボン市東部の再開発は、環境への意識や社会情勢から、多くの市民より受け入れられていた計画だと言えるが、資本を集中投下させ、周辺の交通インフラも含め開幕までに整備を完了させた博覧会の役割も大きかったはずである。加えて多目的ホール、見本市会場、美術館、水族館、水上レストラン、ショッピングセンター、オフィスなど幅広い用途を持った恒久施設を会場の中心に据えた計画は、成熟したまちのような景観形成に貢献している。短期間で用途転換可能な施設のつくり方や、閉幕後の所有主体の要望が施設計画に反映できる出資方法など、閉幕後に徹底してこだわったリスボン国際博覧会の成果は、閉幕後2年間で2,400万人が開発地に訪れた※1という数字によって実証されている。
次回は、リスボン国際博覧会の前後に開催された1992年のセビリア万国博覧会と2000年のハノーバー国際博覧会を対象に加え、同様の観点から比較・分析することで、愛知万博開催に揺れ始めた90年代、国外で開催されていた博覧会を概観する。

副都心を見据えた大通り

テージョ川に顔を向けた施設群
たにだ・まこと/1971年生まれ。名古屋大学大学院修了。工学博士
※1)Parque Expo 98 S.A.『Parque Magazine Number 9』2000