再見 東海地方の名建築家D

三重県最初の建築事務所創設/ 地域が育てた建築家・野田新作
瀬口 哲夫
(名古屋市立大学芸術工学部長・工学博士)
1.独自の合理的設計観による設計/ 尋常小学校講堂
野田新作(1890〜1966)
 三重県を代表する戦前の建築家として、野田新作をあげたい。筆者が、野田新作の建築(四日市市立四郷小学校)に遭遇したのは、近代建築の調査をしていた1970年代後半のことで、小高いところにあり、壁が直行していないことが今も強く印象に残っている。
 その四郷尋常高等小学校講堂(1935年)は、演壇を中心に左右に開く平面形で、客席部分の平面は不等辺六角形(図2)。これに、玄関部分と舞台部分がくっつく、複雑な形になっている。印象に残ったのは、この変形平面のせいである。しかし、上から屋根を見ると折り紙のようなシンプルな形。学校建築としては珍しいが、合理的平面である。
 同じような作風を持つのが、千種尋常小学校講堂(1937年、菰野町)と大矢知尋常小学校講堂(1935年、四日市市)である。千種尋常小学校講堂も、演壇を中心に、客席部分が左右に広がる変形六角形(文2)平面(図3)となっている。開口部に添って天井が下げられているところ、要所に見切縁や回縁をつけているところ(写真1)など、野田の作風が見られる。大矢知尋常小学校講堂も、視線を演壇に集中させる変形六角形平面である。
 多度尋常高等小学校校舎(1933年、桑名市多度町)は、瓦葺き切妻屋根、木造2階建て校舎であるが、正面中央の切妻のある玄関部分、左右の開口部とその間の壁面、2階上部の壁面構成に、設計者の意匠的な力量が発揮されている。 野田新作は、造形感覚を持って、独自の作風をつくり上げた、戦前の三重県を代表する建築家である。その作風には、表現主義的な影響がある。

図1 四郷尋常高等小学校講堂実測南立面図(文3)

図2 四郷尋常高等小学校講堂平面図(文1)

図3 千種尋常小学校講堂平面図(文2)


旧千種尋常小学校講堂内部(文3)
2.山形で生まれ、工業学校で学ぶ/ 1890年〜1907年
 野田(貝沼)新作は、1890(明治23)年1月25日、貝沼家の次男として、山形県南置賜郡玉庭村(現、東置賜郡川西町玉庭)に生まれた。長じて、玉庭尋常高等小学校を卒業後、山形県工業学校(現、山形県立米沢工業高校)建築科に入学。3年間の教育を終え、1907(明治40)年3月に卒業。この年の4月、三重県四日市市雇となる(文3)。新作は、学校に来ていた求人に応募したのではなかろうか。ちなみに、三重県津工業学校に建築科が設置されたのは、1917(大正6)年のことである。
3.三重県内での活躍/ 1907年〜1924年頃
 1907(明治40)年4月に、四日市市役所に入った新作は、翌年の1908(明治41)年に、技手となった。この頃、将来の妻となる野田きょう(三重県石薬師出身)と知り合う。新作の長女志んの話(注1)によると、野田きょうは、四日市第五小学校教員で、新作とはテニスが縁で知り合ったという。1910(明治43年)2月、20歳となった新作は、彼女と結婚する。結婚を機に、新作は貝沼の姓を改め、野田姓を名乗ることになる。
 徴兵年令(満20歳)になった新作は、1910(明治43)年12月1日より、陸軍第三師団工兵第三大隊(名古屋市)に入営。入営2週間ほどで長女が生まれている。
 1年間の徴兵を終えて、再び四日市市役所に戻るが、1912(明治45)年10月7日に、四日市市役所を辞して、第十五師団(豊橋市)経理部雇となる。工兵第三大隊入営時のつながりで誘われたのであろうか。  第十五師団司令部が豊橋市高師で開庁されたのは、1908(明治41)年11月のこと(注2)で、野田は、新設の第十五師団関連の建築工事に携わったと考えられる。1914(大正3)年4月には依願免官となる。
 再び、妻きょうの出身地の三重県に戻り、同年5月には三重県土木工手となる。1918(大正7)年12月には、三重県技手に昇進。野田の県勤務は、1919(大正8)年6月までの約5年間に及ぶ(注2)が、この頃の設計としては、木造平屋建ての三重県師範学校演武館(1916年)がある(文3)。  さらに、1919(大正8)年に、東洋紡績兜x田工場営繕掛に転職。この時、野田新作は、29歳であった。富田工場では、紡績第一工場(1920年)、同第二工場(1923年)、同第三工場(1925年)、事務所、寄宿舎などが整備されたので、これらの建物に関係したと考えられる。
 この間、東洋紡績且ミ長伊藤傳七の出身地である四郷村役場(1921年、四日市市四郷)の設計監理に、上司の大石清隆らとともに関係している。この建物の建設費は、伊藤傳七の寄付による。このときのつながりは、野田新作にその後、伊藤傳七邸(昭和初期)や四郷尋常高等小学校(1935年)の設計依頼をもたらすことになる。
4.三重県最初期の設計事務所・ 野田工務所の開設/1924年頃以降
 1924(大正13)年頃、野田新作は、四日市市内で野田工務所を開設するが、これは、三重県での最初期の建築事務所である(文3)。野田新作34歳の頃である。東洋紡績兜x田工場第二工場が竣工した頃で、創設当時の野田工務所の仕事として、松阪町役場(1926年)、鎮国守国神社社務所(1927年、桑名市)、伊藤傳七邸(1926年頃、四日市市)などがある。
 野田新作の孫、野田泰正さんは、「東洋紡績鰍フ仕事をしたことから、東洋紡を介して、平田製網の紹介があったかもしれません」(注1)という。菅原洋一三重大学助教授は、「野田工務所の設立自体は、平田製網の紡績工場新設を契機とする可能性がある(文3)」としている。
 平田製網鰍ヘ、1926(大正15)年、紡績部門を新設、1938(昭和13)年までに、10万錘に増設するなど、工場拡大を推進している。つまり、野田工務所の開設は、平田製網鰍フ紡績部門増設と期を一にしている。野田工務所は、平田製網轄\内に出張所を設けていた(注1)ほどという。平田製網褐o営者の宗村佐信の知遇を得たことが大いに関係している。
 しかし、大正期の地方都市での建築事務所経営には困難があった(注4)と考えられ、専業ではなく工務所となっている。事実、平田製網の工場施設工事を設計施工で請け負ったことがあるという。ところがこの請負仕事は野田工務所に大幅な欠損を生じさせ、以後、請負業務をしなくなった(文3)。副業としてプレキャストの物干し用柱などを販売したという。
 1935(昭和10)年前後の設計活動としては、平田製網且末ア所、寄宿舎(1937年)、富州原競馬場(1937年)などがある。1935(昭和10)年頃が、野田工務所の最盛期で、所員は4、5名いた(文3)という。岡田光(1930年〜1933年頃)や田村三郎(1936年頃)など名高工卒業の所員もいた。四郷や千種小学校講堂はRC造で、これらの所員が貢献したのではなかろうか。1936(昭和11)年頃に、野田工務所は、野田建築事務所に改称された。
5.野田一級建築士事務所時代/ 戦後〜1966年
1950(昭和25)年の建築士法の公布で、野田一級建築士事務所となる。この時期の設計としては、平田製網滑宿舎や寮、豊栄工業渇抹l工場、萬里工業鰍フ工場、事務所、寄宿舎などがある。昭和30年代になると、暁学園の小中学(写真2)、幼稚園、専用住宅、佐野製作所の工場、倉庫などを設計する。野田新作のほとんどが四日市市内のものである。  また、昭和20年代、30年代を通じて、住宅の設計を行っており、宗村佐信邸増改築(1950〜51年)、平田佐造邸(1950年代前半)、生川平作邸(1959年)などがある。野田新作自邸も1955年に建築された。自邸には壁式RC造の納戸(1953年、1間半×2間)がある。
1955年頃の暁女子専門学校(文4)
6.野田新作の人となり
野田新作は、明治生まれの頑固さを持った人物で、一度、言ったら譲ることはなかったという。また、仕事に厳しい人であった。人好きな野田新作は、自宅近くの行きつけの小料理屋で、仲間や業者とよく飲み会をしていた。三重県や四日市市役所での同僚(矢島四郎や大橋静夫など)との交流を絶やさなかった。名古屋での飲み仲間に、佐藤四郎(佐藤四郎建築事務所)、巻坂亀四郎(巻坂建築事務所)、細谷(細谷建設)などがいた(注1)という。名古屋の建築界のまとめ役的存在であった佐藤四郎との関係は、飲み会だけでなく、本をもらったりしていた。巻坂建築事務所へは、戦後のことになるが、構造設計を依頼していたそうだ。
 孫の野田泰正さんは、子どもの頃、祖父の運転するオート三輪で、平田製網の現場などに連れて行ってもらったことがある。また自宅の一部が作業場になっていて、大工に可愛がってもらったようで、小さいときから建築をやろうと思っていたという。「祖父は、(自分に対して)構造をちゃんとやれという雰囲気だった」という。結果として、野田泰正さんは、現在、名古屋市内で建築構造を主業務とする野田設計事務所を経営している。その野田新作は、1966(昭和41)年8月、76歳で亡くなる。
7.おわりに
 野田新作が、郷里を出て、三重県に来て以来、四日市市、三重県、東洋紡での勤務は、その後の建築事務所設立へとつながる。四日市市、三重県に勤務していたことから、四日市を中心に設計の依頼が多くあり、東洋紡の関係は、後の平田製網、暁学園の仕事につながっている。野田新作は、まさに、地域が育てた建築家といってよいであろう。
注1 野田新作のお孫さん、野田泰正さんの話にもとづく。
注2 三重県庁時代に次女(みき)と三女(和子)が生まれている。注3 1912(明治45)年には、第十五師団長官舎が完成している。注4 中村與資平は、中村建築事務所(1912年)と同時に中村工務所(1922年)を開設していた。中村工務所は、1934年に閉鎖された。三重県の地方都市で専業の建築事務所を開設するのは困難という認識があったかもしれない。文1 四日市市社会教育課「郷土の文化遺産/四日市の民家と近代建築」四日市市教育委員会、1983年
文2 伊藤三千雄「千種小学校講堂」「こもの文化財だより」第四号、1991年3月文3 菅原洋一「近代建築技術の地域的展開に関する研究/三重県を事例にして」博士請求論文(名古屋大学)、1992年
文4 暁学園「暁学園五十年のあゆみ」1980年
文5 酒町分教場90年史編集委員会「酒町分教場90年の歩み」1963年
謝辞:本稿をまとめるにあたり、野田泰正さんと伊藤三千雄名城大学名誉教授からご教示を得るとともに、菅原洋一三重大学助教授、四日市市教育委員会文化係赤松一秀さん、管理係田中伸一さんから資料の提供を頂きました。感謝いたします。