保存情報第50回
登録有形文化財 妙國山興禅寺口庫裏 林 美博/三橋建築設計事務所

妙國山興禅寺庫裏正面

竹薮の中に残る土塁は羽黒城の一部と伝えられている

所 在 地 愛知県犬山市羽黒城屋敷16
建 設 年 1830(文政13)年       
構造・規模 木造平屋一部2階建て   
登録番号 23-0062
■発掘者コメント  
妙國山興禅寺は名鉄小牧線羽黒駅から北西約300mに位置する。1174(承安4)年、源頼朝の家臣で鎌倉幕府の侍所の別当として権勢を誇った梶原平三景時により真言宗「光善寺」として創建された寺である。頼朝の死後、景時父子が失脚し、景時の孫の豊丸と家臣十余人は羽黒に逃れて館を築いて住み着いた。これが興善寺の北東の竹薮の中に残っている羽黒城址である。その後、1497(文明11)年臨済宗妙心寺派「興禅寺」となる。景時から19代の茂助影義が織田信長に仕えて羽黒三千石の領主となり寺を再興したが、1582(天正10)年、本能寺の変で討死し、興禅寺も1584(天正12)年の小牧・長久手の戦いで焼失した。1602(慶長7)年、犬山城主小笠原吉次により現在地に再興された。  今回登録された庫裏は、1830(文政13)年の再建で、本堂東に位置する南北棟で、西側の接客部と東側の居住部に分かれ、表から土間、板間、座敷で構成されている。  玄関土間の中央の屋根に設けられた「煙出し櫓」や妻側に表された小屋組みの虹梁・太瓶束・海老虹梁が特徴的である。江戸時代後期の臨済宗寺院の庫裏の外観が良好に保存されていることが登録の主な理由である。  境内北西角の竹垣に囲まれた竹薮と土塁が、かつて羽黒城址とつながっていたことを想像させる。写真撮影時に偶然、東京から来たというカップルから羽黒城址のありかを尋ねられたが、案内の看板もなく、進入路も未整備で説明に窮した。周辺に点在する歴史資源の活用を掲げた全市博物館構想実現に向けた取り組みの必要性を痛感した。
データ発掘(お気に入りの歴史的環境調査) 密蔵院 多宝塔 山上 薫/山上薫建築事務所

密蔵院  多宝塔

屋根の反りは急で、軒の出も深い

所在地 春日井市熊野町3133    
構 造 木造建設年 室町時代初期
指 定 国指定 重要文化財    
■発掘者コメント  
 春日井市に移り住んで30年になるが、この重文の多宝塔を訪れたのは、今回が初めてである。 よく見るとなかなかおもしろい形をした建物である。上層は円形で板張りの亀腹をつけ、方形の屋根を載せている。下層は周囲に裳階を付け、平面は方形である。
 この多宝塔は室町時代の初期に建てられたもので、何回も修理されたが、昔の姿を留めており、禅宗様式を取り入れた珍しいものとされる。屋根の反りが急で、軒の出も深く、全体として勇壮、しかも安定感が感じられる。
 調べてみると多宝塔は、全国で国宝が5基、重文が34基あり、愛知県には重文が7基ある。このうち名古屋には荒子観音に1基(市内最古の木造建築)ある。県内ではこの密蔵院のものが最も古い。2002年、25年振りにこけら葺き屋根の葺き替え工事が行われたというが、工事費の調達には苦労したらしい。 元々僧の修行場であったため、檀家は全くなかった。現在わずか20軒ほどで、収入源が少ない。見回してみると境内の他の建物も手入れが十分とはいえない。
  この寺は天台宗延暦寺末中本寺格で、正しくは医王山薬師寺密蔵院という。平安時代、尾張天台宗の中枢として栄えた大山正福寺(小牧市大山)が焼失衰微した後、中世以降尾張天台宗復興の中心となった名刹である。比叡山で修行した高僧慈妙上人が1328年岐阜県御嵩の願興寺から来て開いた。 末寺は全国十一か国700余に達した。 僧侶の修行、僧位を受ける場として栄え、かつては寺域に塔頭36坊が建ち、修行した学僧は3,000人を超えたといわれる。600年ほど前の寺運の盛んなときの伽藍群は、現在よりはるかに大規模で、寺域も広大であったと思われる。現在も残る中世の建物は多宝塔のみである。