JIA東海支部の半世紀B
明らかになった業務実態と公取問題に至るまで
税田公道(終身正会員)
 今回は、1953(昭和28)年の日本建築設計監理協会設立から、旧日本建築家協会(JAA)への改組改称を経て、日本建築家協会第1回全国大会が開催される1970(昭和45)年直前までのJIAの流れの中で、職能運動に大きな影響を与えた様々な出来事を述べることにする。
「建築家協会員の七つの大罪」 会員の業務実態調査の結果に関する報告書※1
 1969(昭和44)年2月に職能委員会によって実施された標記調査に関する報告が遅延しながら1970(昭和45)年7月の理事会に提出された。この報告書によって明らかにされたことは、これまで想像されてはいたものの明確な形では知り得なかった建築家職能の今日における一種の危機状況である。したがって、その危機状況に直面し、「会の活動はもっぱらその職能問題に集中させていくと同時に、会員一人ひとりの日常業務におけるその対処が重要である」、とする市浦健会長の言葉とともに、32ページに及ぶ報告書が「部外秘」で同年8月1日、会員に送達された。
 「建築家協会員七つの大罪」といわれる問題がその報告書の中で明らかにされたが、その後半世紀を経てもなお、それらがたいして変わっていないところに、日本における建築家職能問題の難しさがあるように思われる。
 ちなみに、報告書の中で指摘されている「七つの大罪」とは次のようなことである。
1. 建設会社から直接受注の受諾という業態。
2. 業者の技術サービスを無償で利用する事実。
3. 「擬似コンペ」に関して「正常コンペを働きかけて不成功でも応じる」のと、「現状では応じざるを得ない」という態度。
4. 民間の建築主から複数の指名を受けて案の提出を無償で求められた際に、「応じる」と、「応じたことがある」という実態。
5. 建築主に対して契約前に案を提出することを「構わない」とする姿勢。
6. 「官公庁、公団、公社の見積もり合わせ、または設計入札に低率で参加したことあり」という業態。
7. 「業務報酬はどの程度守られているか」に対して、「料率以下」が50%に及ぶ実態。
建築家賠償責任保険認可(1971年)※2
 かねて調査検討が重ねられてきた建築家の設計上の瑕疵により起きた建築物の損害、またはその瑕疵によって他人の身体、財物に損害を与えたことに対して建築家が賠償責任を支払った場合の賠償責任損害を補填する「建築家賠償責任保険」制度が1971(昭和46)年1月9日付けで安田火災海上保険、同年1月27日付けで東京海上保険の両社にそれぞれ大蔵大臣より正式に認可が下された。この種の保険としては、プロフェッション分野では医師に次いで二番目の発足で、これによって建築家がプロフェッションとして確認されたことの意味は大きかった。本保険の業務開始は同年4月1日と定めた。
関東支部、北海道支部設置を議決(1971年)
 これまで関西、東海、九州の3支部しかなく、特に関東地域の会員は「本部」に属するという問題は4年ほど前から論議されてきた。1971(昭和46)年9月22日、臨時総会を開催し、関東支部および北海道支部の設置とそのための会費値上げの問題に関する定款の一部変更を議決した。
「愛知方式」による業務団体設立の動きに反対※3
 1972(昭和47)年、愛知県で登録建築士事務所を網羅した業務団体仮称愛知建築士事務所協会の設立準備が始まった。このような業務団体設立の動きを「愛知方式」と称したが、同様な動きは大阪でも始まった。大阪では全国に先駆けての法令事務所制度発足にあたってのその運用と、建築安全センターの運用問題を中心に業務団体が集まって団体協議会を発足させようとする動きの中で、全事連単位会の大阪建築設計協会と建築士会の建築事務所部会を、それぞれ解散して「愛知方式」による団体設立の模索が始まり、その動きに協会の有力会員の参加が見られた。  協会執行部は、このような専兼の別を問わない登録建築士事務所による業務団体設立の動きは、現行士法の欠陥を定着させ、建築家の職能確立のための法改正を一層困難にしていくものであるとして反対し、それに対抗する形での専業団体である「設監連」設立を急ぐこととなり、やがて後出の大阪における業務団体の役員に就任した協会有力会員と協会執行部との間のぬきさしならぬ軋轢を生むこととなる。
公取委よりの問合せに対して 「報告書」提出(1972年)※4
 いわゆる「公取問題」へと発展する最初の始まりは、1972(昭和47)年3月7日、公取委審査部申告係の事務官よりの協会事務局長出頭方依頼であった。その時点では、八女市町村会館の「擬似コンペ」問題および、都営高層住宅滝野川団地の「設計入札」問題と、それに対して取った協会の処置に関する問い合わせであった。しかしその後、会の処置についての報告書の提出を求められ、1972(昭和47)年4月8日付けで会長名でもって公取委審査部長あての「官公庁設計業務受注問題と本会のとった措置について」という報告書を提出した。その報告書の要点は次の点であった。 1. 職能団体にとって「倫理綱領は必須のものである」。 2. 設計の見積もり合わせは入札とは違う。 3. 建築家および建築設計事務所は、法第二条第一項にいう「事業者」に該当しない。 4. 本会は、法第二条第二項にいう事業者団体に該当しない。 5. 建築設計競技に基準が必要である。  その後、さらに滝野川団地の「設計入札」問題に関する見解等を求められたのに対して、同年8月17日付けで同審査部長あてに「官公庁設計業務受託問題について」という補足見解を提出した。その見解と要点は次の4点であった。 1. 「報酬上の競争をしてはならない」という問題 2. 現実の問題 3. 設計の見積もり合わせの問題 4. 建築家選定の適正な方法  この時点では、これがやがて「公取委問題」という大事件に発展していくものとは、まだ予想されていなかった。
※1 『日本建築家協会ニュース』NO.295、297、298/日本建築家協会職能委員会「会員の業務実態調査の結果に関する報告」(1970年)
※2 『日本建築家協会ニュース』NO.310、313
※3 高橋林之丈「建築設計界と日事連の30年」
※4 『建築家』1973秋号