「UIA イスタンブール 2005」報告 2005年7月3日〜7日
遠くて近いイスタンブール              道家秀男
 2度目のトルコ・イスタンブール、先回は3年前、 2002「旅の大学」で建築を学ぶ学生と社会人の混成チーム30人程で、トルコ・ギリシャ・南イタリアと世界遺産を中心に地中海文明に触れた旅でした。
 今回は「UIA世界大会」’05 イスタンブールで「2011年東京大会」誘致の応援を兼ね、東海支部から総勢36名で参加しました。7月2日夜、一行はイスタンブールに入り、まずホテルのバーで無事到着したことに乾杯。なんと夜景の美しいことか! それはヴォスポラス海峡を眼下にヴォスポラス大橋の美しいシルエットと対岸のアジアサイドを見渡せる壮観な夜景とライブで奏でられるジャズのメロディー、最高のシュチュエーションです。明日からのイスタンブールが今から楽しみです。
 時差ボケで早朝のイスタンブール。朝食まで我慢できずにロビーに下りると、仲間の何人かがウロウロ。海峡の船着場まで散歩して帰ってきた者、その額にはうっすらと汗を浮かべ気持ちよさそうな爽やかな顔。またロビーでタバコをうまそうにくゆらす者。あぁ、みな時差ボケで早いんだ。自分だけではない光景に出合い変に安心しました。
 7月3日イスタンブール初日は全員で市内観光をすることになっていたのですが、大会初日と2日目は我々東海支部で東京誘致ブースの当番が割り当てられ、朝から会場の手伝いに支部長と出かけ、まだ準備段階の会場の様子を見ることができました。午後の担当の仲間と入れ替わり、遅い昼食と海峡沿いの桟橋へと出かけ、その後、先回行きそびれたアジアサイドへ行き当たりばったりでフェリーに乗り(1トルコリラ=約80円)、15分位で江利チエミの懐かしい歌にもなった(歌を口ずさみながら)ユスキュダルに入りました。ガイドのムヒさんによると、そこはイスタンブールの人々にとって憧れの住宅地だそうです。
 大会会場がある新市街からはヴォスポラス海峡の対岸にある町でアップダウンのある風光明媚なまちです。ここからヨーロッパサイドの旧市街や新市街にフェリーや大橋を渡り自由に行けるなど、イスタンブールはアジアとヨーロッパの二つの大陸にまたがる、なんとも不思議な魅力を持った都市です。エリアごとで違った歴史文化の香りを肌で感じます。また、程よいアップダウンのある丘陵地でまちから海へと明確な軸線を持ち何度訪れても違った発見があります。
 聞くところによると人口配分は現在の日本とはまったく正反対で老人15%、若者65%位でどこを歩いても生き生きとした生活臭が充満して活気にみなぎっています。まさにそれはアジアによく見られる生きのよさを感じます。ただ一つ残念に思ったことは、観光都市にもかかわらず、人々の愛想が悪いと感じたことです。私だけかもしれないが、それをガイドのムヒさんに訪ねると、トルコ人は比較的シャイな国民性で、結構、保守的な性格であると聞かされ、それは日本人に近い感覚のようです。
 また、他のヨーロッパの都市と違い日本人にはとても住みやすい都市で、一度、住んでみると日本での生活以上に人生がエンジョイできるそうです。そんな話を日本人トラベルマネージャーから聞き、イスタンブールの魅力にますます納得させられました。
今回はアンカラからカッパドキアまでの約400qをバスで移動しました(イスタンブールからアンカラまでは飛行機)。行けども行けども一見、荒涼とした大地が続く道のりですが、突然、人間の真似できない世界に出くわします。琵琶湖の2倍はあると聞く真っ白の湖(塩湖)、トウズ湖からは、豊富なミネラル分を含んだ自然塩(遠い昔、ここは海であった)が採れます。また300万年前、巨大な噴火によりできたカッパドキア周辺のキノコ型の奇岩郡は、まさに自然が壮大な年月をかけつくり上げた芸術であり、壮観で不思議な風景はまさに自然という芸術家の仕業です。そこへ先人たちが紀元前4000年から穴を掘り、そこには教会ができ、地下都市が生まれ、人類の営みが始まり、文化が生まれました。そしてこの地域では世界的に有名な幾何学模様が織り成す色彩豊かなトルコ絨毯やキリムなどが生まれています。今回のトルコ、長いようで短かった8日間の旅。ますますトルコの魅力にはまりそうです。
 今回「UIA世界大会」をきっかけに思いかけず2度目のトルコに来ることができたことに感謝し、この大会で「東京大会」誘致が決定したことを素直に喜び、2008年には「トリノ大会」、また2011年には「東京大会」と、ますます我々の目指すJIAへと発展していくことを心より祈り、団長という大役を無事終えたことを報告致します。ありがとうございました。

会場外観
決定後、壇上にてあいさつをする小倉善明会長

UIA2011東京大会決定の瞬間

早朝会議のようす

東京誘致ブース

もう一つの立候補都市、ダーバンのブース
学生時代にタイムスリップ             谷村 茂
 UIAイスタンブール大会は7月3日のオープニングセレモニーから始まり、7日のフェアウェルパーティで終わりました。大会が終わってからは、総会が始まり、次期役員の選挙を経て10日の最後に行われた2011年大会開催地の投票で全ての行事を終了しました。
 今回は東京が立候補しましたが、東京とダーバンの2都市しか立候補しなかったため、楽観視されたのか、大会会場では誘致関係者以外のJIA会員はあまり見かけなかったようです。東海支部にも当番割り当て要請があったため、日本誘致の東京ブースに2日間に渡って詰めてPRしましたが、北京大会の時のような必死感はなかったようです。こんな楽観ムードでいいのかな、と一抹の不安を感じないではなかったのですが、やはり投票では僅差の勝利だったようで、日本の国際政治への弱さを露呈したようです。
 UIAは何と言ってもヨーロッパ連合のサロンなのです。しかし、最終日にメキシコのトペルソン夫妻に偶然会って旧交を温めることができたのは嬉しい驚きでした。
 さて、今回、私はいくつかの講演を聴きましたが、最終日の「Architecture As Paradox/Robert Venturi」と「Megascale, Order and Complexity / Moshe Safdie」では久しぶりの大御所建築家の元気のよさに感心しました。ヴェンチューリ氏がいまだに生きているのにもびっくりしたのですが、スライドを使いながらイスタンブールのアヤソフィアを皮切りに各都市の比較をとおして「スペースよりもサインが幅を利かしている」現状を皮肉混じりに語る姿を見ていると学生時代にタイムスリップしたかのようでした。  サファディ氏は「いかにしてアーバンスペースを創造するか」を主題に、プレゼンテーションを行ったのですが、いまだにイスラエルやニューヨークで、どんどんプロジェクトを計画しているエネルギーにはとても圧倒されました。しかも、サンパウロの摩天楼の写真を示して「サンパウロには何もない」という彼の説明には妙に納得させられました(UIA会長はどう思ったのでしょう)。
 大会を締めくくるクロージングセッションで、Lerner UIA会長は都市計画家として都市の交通システムを紹介し、バスシステムの優越性を指摘していました。30秒以内の移動が理想だそうです。最後に、彼は、今回の大会が成功した理由にイスタンブールの多くの建築学科学生がいかに大会組織に参加協力してくれたかを紹介して、「建築家は社会に貢献することを始めなければいけない」、と締めくくってイスタンブール大会は幕を閉じました。

会場内風景
知らない国を訪ねて           服部 滋
 UIA大会の東京誘致ブースの手伝いに半日会場へ出かけた以外は、普通の滞在型の海外旅行でした。といっても、今回の旅行は事前に学習する時間もなかったこともありますが、サプライズの連続でした。
 まずビックリしたのが、インチョン経由でイスタンブールに着いた夜に経験したホテルに入るためのセキュリティチェック(空港と同じゲートにX線荷物検査)。これは、アヤソフィア、トプカピなど博物館に入る場合も実施。UIA会場はもっと厳重なチェック。
 次にレストランで飲んだウィスキーの値段。次の日の午後、探し回ったビールの飲めるところのなさ(カフェみたいなチャイはたくさんあるがアルコールはない)。モスクに行かない人が大半のイスタンブール。地図に載っていないトラムの路線。
アンカラからカッパドキアを訪ねる途中の風景、何となく土漠イメージでいたところ、見える限りの小麦畑と牧草地の大平原、塩湖。道路脇の積雪を示すポール(1,000mを越える高原のため、冬は雪が降る)。平原から彫り込まれたところに存在したカッパドキア。バルーンに乗ってみたカッパドキアの夜明け。カイセリ(トルコ中央部)で体験したアルコールの置いてないレストラン(イスラムを実感)。地下都市で体験した閉所に対する恐怖。雑然としたアジア的な下町のつくり、ボスポラス海峡を挟む瀟洒な風景、車の間をすり抜けて道を横断すること、見たこともないトルコ料理、親切な人々、帰る頃にはすっかりなじんでいましたが。

イスタンブール、アジアサイドの住宅街
絵でトルコとの親善を?           福田一豊
 UIA世界大会が開かれたイスタンブールは私にとって名古屋誘致を争い、北京大会での開催地決定に決選投票で敗れた因縁の都市でもあります。今回も2011年の開催地に日本から東京が立候補していますが、その応援ツアーに参加しました。 旅行前、体調が今一つさえず、旅行中に大学の講義があり、また孫が生まれる予定になっているなどで参加を迷っていましが、気分転換を図ることと、イスタンブールのまちの魅力にひかれて思い切って行くことにしました。大会での東京への誘致応援は年寄りがでしゃばることもないと勝手に解釈し、若い人に任せ今回は、旅そのものを楽しむことにしました。 この旅行中、いくつかのスケッチを描くことが目的の一つでした。団体旅行で絵を描くことはなかなか難しいのですが、比較的自由時間が取れたので8枚ほど描くことができました。
 イスタンブールのまちは期待通り魅力にあふれていました。モスクが点在し、それがまちのランドマークとなり、人々の生活の中心となっています。起伏のある地形と海に面してつくられたまち並み、橙色の勾配屋根と白い壁、そしてその中に点在するモスクが緑と調和し美しい景観をつくり、文字通り絵になる景色でした。日本に比べると経済的には恵まれていませんが、生活を楽しんでいる様子があちこちで感じられ印象的でした。私はまちを身近に感じるため、移動にはトラム(路面電車)を中心にタクシーを併用しましたが、運賃も安く大変助かりました。車内でトルコの人たちと一緒になれるトラムの利用は、乗車中に座席を譲ってくれたり、トルコにより親近感を感じることができます。トルコ人は顔に似合わずとても親切ですよ。
 旅の途中でカッパドキアへのツアーがありましたが、世界遺産であるこの景色の人間力では到底なしえない造形の見事さと自然の力の偉大さを見て、言葉に言い尽くせない凄さを感じ、地球上で人間がいかに自然と共生していくかを問いかけているように思いました。アンカラからカッパドキアに向かう道のりの樹木や家一つない麦畑が延々と続く景色はとても豊かな気持ちにしてくれ、この移動中にかけた国際電話で孫の誕生を聞き、それは一層思い出深いものとなりました。  旅行の成果として写真でなくスケッチを一点載せてもらうことにしました。この絵を描いた場所は、アヤソフィアとブルーモスクの間の公園で、人々にあふれ、みなに見られながらのスケッチでしたが、有名なモスクを描いたことで、トルコの人々との親善の役目を多少は果たせたように思います。

イスタンブールスケッチ(福田一豊作)

キノコ頭の奇岩群

新市街にあるガラタ塔より金角湾、旧市街を望む

ユスキュダルのモスクからボスポラス海峡の向こうにヨーロッパサイドを望む 
カッパドキア周辺の旅行記            田中英彦
 7月2日〜9日の旅程中、5日と6日が念願のカッパドキア地方観光でした。
 イスタンブールのホテルを早朝6時に出発、空路首都アンカラへ。バスで、1923年トルコ共和国の独立を宣言した建国の父、アタチュルク廟からアナトリア文明博物館に回りました。この地方で発掘調査された約8000年前の住居跡はすでに一定の型をしており、中庭を囲んで四角い家が並び、屋根は平板な泥レンガ、どの家も居間がありインテリアとして壁画や牛の頭を高浮かし彫りしてあるのには、驚きと住居の概念を覆させられました。
 紀元前18世紀から13世紀頃のヒッタイト王国(人類史上初めて鉄製武器を使った民族)の治金術や芸術性、粘性板や青銅に刻まれた精密な文字に敬服させられました。博物館を後にして、小高い山に建つ民家改造のレストランにたどり着きました。涼風が通り、冷えたビールで、感動を飲み込んだ味はなんとも格調高いものでした。
 その後、一路カッパドキアへバスで移動。行けども行けども小麦畑。土地は痩せていて、火山灰の堆積層でできた地層ゆえかなと想像できました。途中、塩の湖で下車し塩の上を歩きました。 南下から東方へとバスは向きを変えます。シルクロードの隊商宿廃墟が、1日の移動距離30kmから40km間隔に残っています。
 その日は、遠くにウチヒサル(カッパドキアで一番高い岩窟住居村のある山で別名「鳩の谷」)を望む、回りに何もないホテルに泊まりました。翌朝、4時起床で気球によるカッパドキア探索に出かけた7人。目覚めると、東の空に朝日に向かって気球がいくつも浮かんでおり、慌ててスケッチブックに収めました。いよいよ何年来待望の、岩窟住居群に向かいます。
 ウチヒサル、ローズバレー一望の丘、3姉妹の岩、ギョレメ野外博物館など奇岩の織り成す風景、遠望、に言葉を失う。数億年前から幾度となく火山噴火で堆積した、凝灰岩や溶岩層が雨と風に長い年月侵食され、世界にまたとない景観をつくり出したのです。  1950年代まで生活していたギョレメの岩窟住居跡の中に入ると、掘り込んでつくられた食卓、賄いが行われただろう煤のこびり付いた天井の部屋などが、縦、横と繋がっていました。キリスト教徒がイスラム教徒の圧迫から逃れて生活し、壁や天井にフレスコ画の描かれた教会も残っています。イスラム教徒は偶像崇拝を禁じているため、人物の目が消されているのが、痛々しい。ゼルヴェ野外博物館の野天で素焼きの壁掛けを値切り倒して買い、その後カイマクル地下都市に向かいました。地下6〜8層約40mあり、通気口から水を汲み、掘り出した土、堆肥化させた便を排出させ、数千人が暮らしていたといいます。キリスト教徒が、アラブ人などから逃避する時、何カ月も暮らせるようになっていました。異教徒間の迫害の力を想像できませんが、今回の旅は、東西文化の交流点トルコの素晴らしさ以上に、その凄まじさを思い知らされました。

カッパドキアのスケッチ(田中英彦作)

アンカラからカッパドキアに行く途中にあるトウズ湖