再見 東海地方の名建築家C

岐阜建築界のパイオニア/佐藤信次郎
瀬口 哲夫
(名古屋市立大学芸術工学部長・工学博士)
1.丸物百貨店岐阜支店の設計者
佐藤信次郎(1898〜1978)
 岐阜の佐藤信次郎という名前の建築家の存在を知ったのは、日下部邸の調査をしたときである。どんな人物であろうかという疑問を持ったが、そのままになっていた。 最近、インターネットの検索で、偶然、佐藤信次郎という名前に再会した。戦争中の岐阜市の空襲の体験をつづった『空襲体験の手記』の著者としてである。文章の上手な人で、その文末に、簡単な経歴が紹介されていた。
 1924(大正13)年6月、建築事務所創設。協和設計事務所所長。柳ヶ瀬の丸物百貨店の建築などを手がけたとある。佐藤信次郎は、戦前の岐阜市を代表する近代建築家である。
2.波乱万丈の青年時代
 佐藤信次郎は、1898(明治31)年6月、東京・京橋で、父佐藤啓之助と、母てるの間に生まれた。信次郎は双生児で、弟儀三郎とは瓜二つで、「百貨店などで思わぬ場所に掛けられてある鏡などに映る自分の姿に、何回声をかけたかわからない」(文1)と書き残しているほどである。母てるは、信次郎兄弟が2才になるかならない1899年に亡くなった。このため、信次郎たち子どもは、叔母(白神)しげ(父の姉)の手で育てられた。
 長じて、工手学校造家学科に進み、1917(大正6)年7月(第56回)に卒業。卒業後、住宅を専門とする「あめりか屋」(注1)に就職し、住宅の現場に出る。しかし「あめりか屋」勤務はごくわずかな期間だった。
 1918(大正7)年10月頃には、中国の青島や天津などに滞在。この時期のことを、佐藤は、「つとした運命の戯れから玄界灘の洋上に日本を見捨て、以来、殆ど席温まるの暇もない程、北支那の各地を渡り歩いた末、思いも掛けぬ朝鮮の、それも露支鮮の国境に近い咸鏡北道会寧に三年間の軍隊生活、然もその間、琿春事件の討伐隊に加わって、満州の奥地にまで出かけた」(文2)と述べている。
 1918(大正7)年10月には、工兵隊19大隊に所属し、朝鮮に滞在している。佐藤は、ちゃめっけのある人物であったようで、軍服姿と付け髭をした同じ姿の写真が二葉、残されている。1921(大正10)年11月、工兵隊十九大隊第一中隊三年兵除隊となり、天津に戻った。
3.大阪の柳下建築事務所時代/ 建築家・河村鹿市との出会い
 除隊後、天津でしばらく働いたようである。その後、帰国。大阪に住み、柳下建築事務所(柳下実所長)に勤務するようになる(文3)。ここで、1922(大正11)年3月、早稲田大学建築学科を卒業したばかりの河村鹿市と知り合う。河村との出会いが、佐藤信次郎の建築人生を決定づけることになる(注2)。
 工手学校を卒業し、実務の経験を持つ佐藤と、大学を卒業したばかりの河村は、河村が1歳年上であるが年齢も近く、意気投合したに違いない。佐藤は音楽を聴き、歌うことが好きであったし、バイオリンも弾いた(注3)という。河村も学生時代音楽部に所属し、バイオリンを担当していたという(文3)、音楽好き。気が合う条件は揃っていた。
 当時河村には、郷里・岐阜県本巣郡の席田小学校の設計の話があった。これを引き受けるのにあたって、佐藤は、河村から建築事務所の共同開設を誘われたと考えられる。  こうして、岐阜県で最初の建築事務所という、河村・佐藤建築事務所が、1924(大正13)年、岐阜市春日町高野で開設された。
4.岐阜県内RC造建築のパイオニア事務所/河村・佐藤建築事務所時代
 河村・佐藤建築事務所の活動は、席田小学校の設計に始まる。河村が設計し、佐藤は、現場監督を務めたようで(文3)、1925(大正14)年10月に落成式が行われている。

 佐藤の経歴書(注4)によると、大垣貯蓄銀行ビル(1925年)、啓文社(1925年)、岐阜信託ビル(1926年)、大垣共立銀行岐阜支店(1927年)などの建物がある。
 大垣貯蓄銀行ビルはRC造3階建てで、その後、名鉄マルイとなり、2001年、守屋多々志美術館としてオープンした。
 注目すべきは、これらの建物がすべてRC造で、まさに、岐阜県におけるRC造建築のパイオニア(注5)であるばかりでなく、RC造の建物を設計できる唯一の地元建築事務所であった(注6)と考えられる。いわば、岐阜県内では、群を抜いた建築事務所であった。
 佐藤と河村の蜜月時代の1925(大正14)年、佐藤は揖斐郡揖斐川町の(岡部)雅子と結婚する。雅子を佐藤に紹介したのは、河村であった(注7)。続いて河村は、1926年に結婚するが、仲人は佐藤信次郎夫妻(文3)。東京生まれの佐藤が、岐阜に定着する道筋がつくられた。
 佐藤と河村の共同事務所は、1927(昭和2)年までの3年間継続した。以後、両者は独立し、岐阜市内に建築事務所をそれぞれ開設する。しかし、二人の友情は、河村が1947(昭和22)年に亡くなるまで続いた。

河村・佐藤建築事務所時代の佐藤信次郎
5.日下部合名の仕事を一手に 引き受ける/佐藤建築事務所
 佐藤信次郎は、1927年、佐藤建築事務所を開設する。当初の仕事は、名古屋市内の昭和倉庫大池ガレージ(1929年)や多治見小学校の木造校舎(1929年)であった。
 佐藤信次郎の建築事務所の転機は、日下部合名(日下部久太郎)からの設計依頼である。佐藤と日下部の出会いは、岐阜信託ビル(1926年、協和ビル)である。この建物は、岐阜市神田町に建築されたRC造3階建てで、河村・佐藤建築事務所が設計を行っているが、日下部久太郎の関係していたビル(注8)であった。
 こうした縁で、1930(昭和5)年、日下部汽船神戸支店改造の仕事が入ったと思われる。木骨レンガ造2階建て建築である。翌年の1931年に、同じ日下部合名から、函館市の萬世ビル改造工事の依頼がある。こちらは石造3階建てである。
 以後、日下部家からの設計依頼を見ると、武豊農園の住宅(1931年)、日下部家京町貸家(1932年)、舞子小住宅(1937年)、北海道大沼温泉旅館・山水(1938〜1939年)、舞子ホテルパーラー増築(1939年)舞子ホテル新館(1940年)、大沼温泉公衆浴場(1940年)、舞子住宅などである(注9)。北海道にはよく行ったようである。
 これらを見る限り、日下部合名は、佐藤建築事務所の主要なクライアントであったことがわかる。筆者の質問に対して長女の佐藤和子さんは、「日下部さんの仕事をほとんどしていたのではないでしょうか」と言っている。
 佐藤の事務所は、岐阜市神明町2丁目にあったが、1932年、京町に自宅を新築したのにあわせ、事務所を自宅へ移転した。

函館萬世ビルジング改造工事配置図(1931年)

舞子住宅(昭和前期)
6.39才のときに丸物百貨店設計/ 佐藤建築事務所
日下部合名以外からの仕事としては、大垣共立銀行長浜支店(1931年、RC造)、吉村病院(1931年、RC造3階建て)、伊深温泉・雅仙楼(1932年、木造二階建て)、丸物百貨店岐阜支店(1937年、RC造)、槌谷柿羊羹駅前支店(1938年、木造二階建て)などがある。
 1931年6月、大垣共立銀行嘱託になるが、このときの仕事が、長浜支店と考えられる。1935(昭和10)年、丸物百貨店(注10)の嘱託となり、岐阜支店新館の設計監理に携わる。丸物百貨店岐阜支店新館は、佐藤信次郎の代表作となったものである。佐藤39才の時である。
 岐阜市柳ヶ瀬の丸物百貨店岐阜支店(1937年)は、地下1階地上9階のRC造で、延べ床面積は3,179uあり、市内随一の百貨店であった。

丸物百貨店岐阜支店(1937年)
7.戦争中の仕事/ 中国・鞍山での仕事
 1940(昭和15)年に、大沼公園公衆浴場と舞子ホテル新館工事が終わってからは、戦時体制になり、目立った設計の仕事はなくなる。佐藤は、1940(昭和15)年5月、中国北部を旅行している。北京では、日支交歓会を行い、万里の長城を見学。ハルピン、新京、北京、天津、旅順と廻っている。旅行で、若い頃のことを思い出したに相違ない。この時期、鞍山製鋼独身寮の仕事で、鞍山に住んでいたようだ。
8.山林会館や学校建築を手掛ける/ 協和建築設計事務所時代
 終戦後、佐藤信次郎は、建築事務所の名称を佐藤設計事務所に改める。さらに、1962年10月、葛ヲ和設計事務所として法人組織に改組した。事務所は自宅のある岐阜市京町1丁目で、佐藤が代表取締役(注11)。1962(昭和37)年、組織を株式会社に改める。この時期の所員は所長の佐藤を筆頭に、加藤(昭)、加藤、清水、山本、広瀬、岡本、矢野、可児など10名程度であった。
 戦後、岐阜県内の学校建築、ビル、工場建築を中心にして設計活動を行った。戦後すぐの建築作品としては、徹明湯(1948年)、山林会館(1955年)などがある。   1969(昭和44)年9月、佐藤は病に襲われ、加藤昭二に事務所を託す。協和設計事務所(注12)は、1996(平成8)年まで、岐阜市京町にあった。佐藤信次郎は、1978(昭和53)年に亡くなる。享年80才であった。

岐阜県山林会館(1957年竣工)
注1 「あめりか屋」は、1909(明治42)年に住宅専門会社として設立された。店主は橋口信助。
注2 佐藤信次郎が柳下建築事務所に勤めたということの確証はとれていない。しかし、この時期(大正12年4月)、佐藤は大阪に住んでいたことと、佐藤と河村と一緒に写った写真(大正12年7月)が存在している。
注3 佐藤信次郎の長女佐藤和子さんの話による。
注4 佐藤信次郎関係の建物の建築年は、特別なものを除き、協和設計事務所経歴書(1963年)による。
注5 『日本近代建築総覧』(1980年)では、工場や発電所以外のRC造建築で、河村佐藤建築事務所のものは4件あるが、それ以外の事務所のものはない。さらに、佐藤信次郎の経歴書ではRC造の建物は10件以上ある。
注6 佐藤信次郎は、工手学校(1917年卒)で、鉄骨構造、材料強弱法、さらに、RC造の家屋構造や製図などを学んでいる。河村鹿市は早稲田大学(1922年卒)で、RC造、建築構造法、建築材料、鉄骨構造などを学んでいる。
注7 佐藤信次郎の長女佐藤和子さんの話による。
注8 岐阜信託ビルの増築が、1937年頃、実施されるが、このときの設計は、西村(好時)建築事務所である。
注9 日下部家関係の建物の建築年は、筆者作成メモによる。
注10 丸物百貨店岐阜支店は、大垣共立銀行岐阜支店の2階以上を借りて1930年に開店した。設計は河村・佐藤建築事務所。
注11 佐藤は施工部門として、東海建設という会社を設立した。
注12 協和設計は、加藤昭二氏の後を、現在、加藤隆が引き継いでいる。
文1 佐藤信次郎『佐藤信次郎メモ』
文2 佐藤信次郎『或る旅日記』
文3 水野耕嗣『建築家河村鹿市とその作品/岐阜近代建築事務所の開拓者』(岐阜高専紀要、第14号、1979年)
謝辞:本稿をまとめるにあたり、佐藤信次郎の長女佐藤和子さん、孫の佐藤展正ご夫妻にお世話になりました。感謝いたします。 佐藤信次郎(1898〜1978) 河村・佐藤建築事務所時代の佐藤信次郎 函館萬世ビルヂング改造工事配置図(1931年) 舞子住宅(昭和前期) 丸物百貨店岐阜支店(1937年) 岐阜県山林会館(1957年竣工)