再見 東海地方の名建築家B

建築人生の花道となった名古屋控訴院/設計監督工事者・金刺森太郎
瀬口 哲夫
(名古屋市立大学芸術工学部長・工学博士)
1.名古屋控訴院の設計監督工事主任/1917年〜1922年
金刺森太郎(1863〜1929)
 名古屋市東区にある名古屋市市政資料館は、名古屋における近代建築の横綱級の建築である。名古屋の建築家で、この建物を知らない人はいないであろう。
 5カ年の工期をかけて、1922(大正11)年9月に完成した、名古屋控訴院・地方裁判所・区裁判所は、中央にドームをいただく赤レンガ造の3階建て、正面の長さ70m、延べ床面積7,022uの大建築である(文1)。
 全国8カ所につくられた控訴院のうち、現存する最古の庁舎で、さすがに堂々としている。日本における名古屋という都市の位置付けを無言のうちに示している。1984(昭和59)年、国の重要文化財に指定された。
 今からでは考えにくいが、実は、裁判所の移動に際し、この建物を取り壊す予定になっていたのだ。これを覆したのは、市民、行政、学者などの粘り強い保存運動であった。
2.設計は山下啓次郎と金刺森太郎のコンビ
名古屋市市政資料館(旧名古屋控訴院庁舎/旧名古屋高等裁判所)
 この建物を設計したのは、山下啓次郎と金刺森太郎の2人である。
 工事計画総推主任の山下啓次郎(1867年〜1931年)は、藤森照信さんから“監獄建築家”と命名されたエリート建築家。彼は、鹿児島県出身で、帝国大学・工科大学造家学科を1892(明治25)年に卒業。警視庁技師を経て、1897(明治30)年に司法技師、1903(明治36)年に司法大臣官房営繕課長となる。「山下監獄のベストスリーは、奈良刑務所、長崎刑務所、千葉刑務所、これに鹿児島と金沢を加えて五大監獄」(文2)。余談だが、ジャズピアニストの山下洋輔は彼の孫にあたるそうだ。
 一方、設計監督工事主任の金刺森太郎(1863年〜1929年)は、旧制韮山中学校を出た後、数多くの建築現場で経験を積み、1908(明治41)年、司法技師になったという、たたき上げの建築家。
 山下啓次郎が担当し、金刺森太郎が補佐したものとしては、埼玉県赤十字社、監獄協会、松江税務署などがあるが、その中でも名古屋控訴院が最高の建築である。
 両者の関係について、孫の金刺正明さんは、「エリートである山下さんは、たたきあげの祖父(森太郎)を取り立ててくれ、祖父は、山下さんを慕っていた。祖父は何をおいても山下さんのところへ駆けつけたほどです」(注1)という。
3.最後の花道・名古屋控訴院 (1922年)
 金刺森太郎は、1917(大正6)年、名古屋の建築現場勤務を命じられている。名古屋市市政資料館には、金刺の「我名古屋に於ける裁判所」や照明器具などの図面などが展示されている。
 正面階段を上がったところの中央大階段室は、吹き抜け空間で、明るい半円筒の天井にはステンドグラスが入り、正面の壁面には、秤の絵が描かれたステンドグラスがある。こうした細部設計は、金刺森太郎の手になるところが多いのではなかろうか。階段の手摺り子をじっと見ていると、その模様が、「金」の字に見えてくる。ひそかなメッセージに違いない。画家は絵の中に自分を描くことがあり、建築家の場合も、設計した人がそっと自分のサインを入れることがあるが、この“金の字”の模様は、金刺の一文字を潜ませたのではなかろうか。
 名古屋在勤時の1919(大正8)年、金刺森太郎は、子ども(注2)の結婚式を熱田神宮で挙げている。まさに、金刺森太郎の人生のハレの時期である。

名古屋控訴院3階会議室照明設計図(※)

名古屋控訴院会議室用帽子掛設計図(※)

「金」の字に見える階段手摺り子

名古屋控訴院工事途中の記念写真。前列右から5人目が金刺森太郎(※)

金刺森太郎への辞令(※)
4.木工家から松崎萬長との出会い/1883年〜1896年
 金刺(伊奈)森太郎は、1863(文久3)年3月10日、伊奈八兵衛の四男として、静岡県田方郡土肥町土肥に生まれた。韮山村中学校卒業後、建築を志し、“木工家”の徒弟として修業を始めた(文3)。親戚が沼津で大工や指物師をしており、これを頼ったのではないかという。金刺の言う、“木工家”というのは、建築から家具、建具などを含んだもので、名古屋控訴院の照明器具などの図面などに、その成果が現れている。
 森太郎にとって重要なのは、1885(明治18)年2月に男爵松崎萬長(1858年〜1921年)のもとで、麻布尾市兵衛町の外務省外国人官舎、外務次官官舎舞踏室の建築工事監督に参加したことである。
 松崎との出会いが、金刺森太郎の人生を決めることになるとは思わなかったであろう。松崎萬長(文4)は、1871(明治4)年の岩倉具視を団長とする遣欧使節団に同行。その後、ベルリン工科大学で建築を学び、15年後の1884(明治17)年12月帰国した。松崎にとって、帰国早々の建築が外務省外国人官舎、外務次官官舎舞踏室であったようで、これに、20才の金刺森太郎が参加した。
 外務省の仕事に引き続き、松崎萬長のもとで、1885(明治18)年、麹町区上二番町外務大臣青木周蔵控邸ドイツ式レンガ造洋館の建築工事監督に従事。松崎がドイツに滞在していた時、青木はドイツ公使であり、両人は近い関係(注3)にあった。
 松崎萬長は1886(明治19)年5月に政府の臨時建築局技師に就任した。
 その少し前の1886(明治19)年2月、金刺は青木家に雇われ、ドイツ人技師チッエ氏の下で青木控邸(ドイツ式建築)の工事監督を行うことになる。さらに、那須の青木別邸(ドイツ式木造建築)の工事監督を引き受ける。
 青木邸の仕事の後は、東海道山北および沼津静岡間の鉄道建築に従事し、その後、深川の岩崎別邸や芝の浜離宮建築工事肝煎工手を務める。1891(明治24)年、内務省臨時建築掛海軍省建築の肝煎となるが、これ以降は官公庁の仕事が中心になる。
 工事完成の1895(明治28)年以降、外務省建築係雇い、埼玉県庁第二課建築係雇いを務める。1894(明治27)年、森太郎は金刺とよと養子縁組をし、以後、金刺森太郎となる。
 青木家、岩崎家、内務省、外務省の仕事のつながりは、松崎萬長との出会いによってできたものと思われる。
5.司法省技師・山下啓次郎との出会い
 1896(明治29)年、金刺森太郎は司法省技手に任命される。ここで、山下啓次郎と仕事をする機会に恵まれるのである。山下啓次郎と金刺森太郎との関係の中に、埼玉県赤十字社の設計があるが、これが両者の最初の出会いだったかもしれない。もし、金刺が埼玉県庁第二課建築係の時のことであれば、これが司法省入りのきっかけになった可能性がある。
6.司法省時代/1896年〜1924年

大阪控訴院
 技手として司法省に入った金刺森太郎は、1908(明治41)年に司法技師に昇任し、福岡監獄建築現場在勤となる。1910(明治43)年、大阪控訴院建築現場在勤、および工事主任を命じられる。1916(大正5)年4月、大阪監獄拘置監と神戸監獄拘置監の建築現場、1917(大正6)年、大阪監獄拘置監建築現場在勤となる。そして、1917(大正6)年9月、名古屋控訴院建築現場の在勤を命じられ、建築工事主任となる。
 1919(大正8)年、京都地方裁判所、東京区裁判所建築現場兼務。続いて1922(大正11)年、名古屋控訴院兼大阪監獄建築現場在勤を命じられ、金刺森太郎大阪監獄の建築工事主任となる。金刺50才代の仕事振りである。
 司法技師としての金刺森太郎は、名古屋控訴院、大阪控訴院、京都地方裁判所などの裁判所建築と大阪監獄、神戸監獄、福岡監獄などの監獄建築を担当しているが、中でも名古屋控訴院の建物が、彼の建築人生の中で最高であったと思われる。満60才になった金刺森太郎は1924(大正13)年12月に依願退職するので、まさに名古屋控訴院は、名実ともに最高の花道であった。
7.その他の建築
 金刺森太郎が設計に関係したもの(文3)として、先に挙げた埼玉県赤十字社屋の設計補助(山下啓次郎担当)の他に、横浜製糸会社の設計補助(大田毅担当)、監獄協会(山下啓次郎担当)の設計および監督補助、松江税務署(山下啓次郎担当)の設計補助などがある。
 さらに、細川男爵家の設計および監督、関西大学の建物の設計および監督をしたようだ。前の4つは設計の補助となっているが、後者の2つは、設計および監督となっているので、彼が中心になったと考えられる。
8.尊敬される人物
 金刺森太郎は木工家からスタートし、現場を通して建築設計技術の力をつけた建築家である。司法省に入省して以来、裁判所や監獄建築の設計や現場監理で実績を上げ、1908(明治41)年、司法技師、高等官になった。
 司法技師としての実績に応じ、1915(大正4)年に大礼記念章を、1920(大正9)年に勲五等瑞宝章(賞勲局)を授章、さらに1924(大正13)年に正五位(宮内省)を与えられている。
 お孫さんの金刺正明さんによると、「沼津の人にとっては見たこともないような大礼服を持っていた。宮中に呼び出されたこともあったようです」という。また、大礼服を着て、馬に乗った姿が地元の人々を驚かしたことがあったと金刺家では語り継がれている。
 金刺森太郎は、退官後、沼津で余生を送るが、これは、妻クニの実家が沼津にあったこと、自らの生まれ故郷である土肥村に近いことから選んだとされる。菩提寺の新築をボランティアで設計監督して、穏やかな老後を送った。
◆謝辞:この稿をまとめるにあたり、金刺正明氏、名古屋市市政資料館の岩佐浩氏、小笠原弘康氏にお世話になりました。感謝いたします。
注1 筆者への金刺正明さんのお話
注2 森太郎は子供がなかったので、妻(仁王)クニの縁者である(仁王)カツを養子にしていたが、1919(大正8)年11月に、亀田(金刺)蔵を婿養子に迎え、両者の結婚式を行った。
注3 那須にある「明治の森 黒磯」にある青木周蔵那須別邸では、青木と松崎両人の資料が展示されている。
文1 日本建築学会東海支部歴史意匠委員会「東海の近代建築」中日新聞社、1981年
文2 藤森照信「建築探偵 東奔西走」朝日新聞社、1988年
文3 「金刺森太郎履歴書」金刺家所蔵
文4 近江栄・藤森照信「近代日本の異色建築家」朝日新聞社、1984年
写真※は名古屋市市政資料館所蔵