新連載 JIA東海支部の半世紀
そして職能の追求が始まった
税田公道(税田建築設計事務所)
連載を始めるにあたって
 1982(昭和57)年、旧・日本建築家協会(JAA)東海支部創立30周年に記念誌が支部から出版された。以後、今日までおおよそ22年が経過した。この間を埋める文書が欠落していることが残念であったが、今回、本誌のページを与えられ、私のかかわったJIA東海支部のその後を前記30周年の記念誌の続編として書き留めたい。
職能確立に向けての草創期 (第1期)
 特に明治以後、日本が急速に近代化していく過程で、「建築家が行う設計・監理業務は、建物をつくる建設業に含まれる一分野である」とする一般的認識を見直すことを忘却してきた時代に、辰野金吾、長野宇平治、曽禰達蔵、中條精一郎(娘は作家・宮本百合子)、池田稔、酒井祐之助、清水仁三郎、野村一郎、福井房一、真水英夫、三橋四郎、保岡勝也など12名の発起人によって、近代プロフェッション確立の動きは始まった。時に1914(大正3)年。これは全国建築士会(翌年に日本建築士会に改称)と称し、現在のJIAの前身にあたる。1917(大正6)年、日本建築士会は、「建築士の業務報酬規定」、「建築士徳義規定」(今日の倫理規定に相当)を自主的に制定。1925(大正14)年には、建築士法制定に関する建議案を衆議院に提出するに先立ち、建築学会など5団体に協力を求め(2月)、第50回議会衆議院に初提出(3月)。以後、1940(昭和15)年まで連続して法制定運動を行ったが、残念ながら15年戦争がたけなわに及び、その渦中に埋没させられ、1945年の敗戦を迎えることとなった。
 以上が戦前期(旧憲法の時代)の建築家団体の草創期(第一期と称する)のもので、今、私たちは先人たちが歩んだ建築家職能の確立を目指す運動の連続した流れの中にいることを忘れてはならない。
 この第一期は日本が先進諸国を見習い、近代化を遂げようと国をあげてその波を浴びた時代であったから、鉄道、橋梁、駅舎、倉庫などの公共施設に始まる産業の一大転換点であった。しかし一方、日清・日露戦争から急速に軍隊の必要強化策が叫ばれ、軍事強化策の流れの中で兵舎の充実、軍事諸産業の設立強化など、軍国化に向かって歩みだすこととなった。この状況下では、民間産業はその流れの川下に置かれ、住宅や教育施設などは二の次、三の次に位置付けられてしまった。すなわちこの時代は、民生にとって暗黒の時代と位置付けられよう。
新憲法下で再び職能確立の運動期に (第2期)
 1953年2月27日、社団法人日本建築設計監理協会東海支部が発足。1956年に社団法人日本建築家協会(JAA)に改組改称し、同年のUIA加盟を契機に、国際的通念に合致した建築家個人の団体の支部となった。以後1983年までの30年間のJAAの活動は、30周年記念誌によられたい。
設計監理協会を糾合し現在のJIA発足 (第3期)
 これからの21世紀は、かつてわれわれが経験したことのない新しい価値観が基軸になることを予感せずにはいられない。つまり団塊の世代とその子どもたちがこの世紀を牽引するエンジンとなるはずだからだ。
 この団塊の世代は戦争を知らない世代でもあって、ビートルズや女性がGパンを愛用するようになった時代でもあり、巨大な消費市場をつくり出した時代でもあった。そして、バブルの崩壊を迎え、この団塊の世代が60歳代に入ろうとしている。今その数700万人とも言われる。
 団塊の世代は新しい文化を日本に根付かせたように思う。それにより若者たちは、「自分で職場を選択できる自由」を得、「安定した収入を得る道を捨て、窮屈な宮仕えを捨て、自由気ままに生活する方策を選択する道」を得た。
 かつて戦後、雨後のたけのこよろしく全国に建てられた公私営の中高層アパート、特にエレベーター設備のない建物が今、建て替えの時期を迎え、高齢者たちは住みにくくなっている。建て替えの工事にエレベーター費用が加算されては家賃が膨らみ、その財布は限界を超えるに違いない。この住宅問題に解決策があるだろうか。
 この戦後処理策とも言うべき問題の一つを取り出してみても、建築界は官民ともども頭を抱えているのみで、その解決策は現在も模索中である。
 建築家は、このような国民的な住宅問題を避けて通ることはできず、むしろ国に提言しなければならない立場に立っているといえよう。
 JIAの第三期はこの問題を抱えながら2000年を迎え、今出発し始めている。
<参考文献>
・ 『日本の建築家職能の軌跡―新日本建築家協会の設立まで』(藤井正一郎、鶴巻昭二・著/日刊建設通信新聞社・刊)
・ 『建築家と職能−建築家のプロフェッションとは何か』(山本正紀・著/清文社・刊)
・ 『JAA創立30周年記念誌』(JAA東海支部・刊)
ぜいだ・まさみち/1929年東京都生まれ。1946年名古屋市立工芸学校建築科卒業。1958年(株)税田建築設計計算事務所開設(1974年(株)税田・村瀬建築設計事務所に、1994年(株)税田建築設計事務所に改称)、2000年税田建築設計事務所に改組 登録建築家
西暦(元号) JAAの草創期 トピックス
1914(大正3) 全国建築士会創立。発起人、辰野金吾、長野宇平治、曽禰達蔵、中条精一郎たち12名。 第一次世界大戦勃発。
1915(大正4) 日本建築士会に改名。
1917(大正6) 日本建築士会「建築士の業務報酬規程」「建築士徳義規約」を制定。
1925(大正14) 日本建築士会、建築士法制定に関する建議案を衆議院に提出するに先立ち、建築学会などの5団体に協力を求む(2月)。
日本建築士会、建築士法制定に関する建議案を第50回議会衆議院に初提出(3月)。
以後、1940(昭和15)年まで連続して法制定運動を行なう。日本建築士会、“建築士法成立に関する諸家の意見”発行(9月)。
治安維持法公布される。
1927(昭和2) 機関誌「日本建築士」創刊。 芥川龍之介自殺。
1928(昭和3) 日本建築士会、社団法人の認可を受く。 張作霖爆殺事件。関東軍の暴走が始まる。
1929(昭和4) 建築士法案、第56回議会衆議院本会議で可決。貴族院に回附されたが同日議会閉会により成立せず。 漢口、南京に排日運動起こる。
1931(昭和6) 日本建築士会、第59回議会に建築設計監督士法案を提出。審議に及ばず議会閉会。日本建築士会、「建築競技執行規準草案」を発表。報酬規程を修正。「社団法人日本建築士会会員業務報酬規程」と改称。 柳条溝(湖)事件。日中両軍が衝突(満州事変)。セメント連合会市場統制する。
1934(昭和9) 建築設計監督士法案を再び“建築士法”案に変更し、第65回議会に提出、再度衆議院を通過したが、貴族院での審議に及ばず閉会。 法隆寺大修理着工される。
1937(昭和12) 建築士法案、建築士の責務に関する事項を追加し、第70回議会に提出。不成立。 盧溝橋事件。その後の日中戦争の発端となる。
1938(昭和13) 第73回議会に建築士法案提出、三度衆議院を通過するが、貴族院において審議に及ばず閉会。 東京五輪・万国博覧会が事実上中止となる。
1940(昭和15) 第75回議会に建築士法案提出。四度衆議院を通過するが、貴族院において会期終了にて審議未了。
1925(大正)14年以後、委員会付託を含めて議会提出12回に及んだが、議会の閉会などによりいずれも審議未了。
戦前の建築士制定運動はここに終了を余儀なくされた。
日独伊三国同盟成立。
1941(昭和16) 日本建築士公用団結成。 ハワイを奇襲。米英に宣戦を布告(太平洋戦争の開始)。
1943(昭和18) 日本建築士会「契約書」「設計監理委嘱書」の書式を制定。 学徒出陣。
1944(昭和19) 戦時統制組合法によって、日本建築設計監理統制組合が発足。 サイパン陥落。B29による本土空襲が本格化する。
1945(昭和20) 日本建築設計監理統制組合「組合員業務規程」制定。終戦。戦災復興院設置。 沖縄陥落。広島・長崎に原爆。敗戦を迎える。
1947(昭和22) 日本建築設計監理統制組合は日本建築設計監理協会に改組。 日本国憲法施行。
1948(昭和23) 日本建築設計監理協会、日本建築士会、「建築設計監理業務規程」を協同制定。日本建築士会、「建築設計監理と建築士の立場」―建築事務所の解説―作成。建設省設置。 極東国際軍事法廷(東京裁判)。東條英機ら7人が絞首刑となる。
1949(昭和24) 日本建築士会創立35周年記念式典。建築技術者の資格制度調査に関する4会連合委員会の成案に基づき、建築士法制度に関する建議書を、学会長名にて総理大臣、建設大臣などに提出。建設業法公布。 中華人民共和国成立。
1950(昭和25) 建築基準法、建築士法公布。 朝鮮戦争勃発。
1951(昭和26) 4会協定の「工事請負契約約款」制定。 サンフランシスコ講和会議。西側陣営の一員 として国際社会への復帰を果たす。
1952(昭和27) 建築士法制定に伴い、日本建築士会解散。代わって、士法に基づく東京建築士会、日本建築士会連合会が新たに発足。建築家の職能団体としては、日本建築設計監理協会のみとなる。旧士会会員の殆どが同設計監理協会会員となる。同協会、社団法人の認可を受く。関西支部設立。 日米安全保障条約発効。