再見 東海地方の名建築家A
滝家建築顧問建築家/ 隠れた建築家・村瀬國之助
瀬口 哲夫
(名古屋市立大学芸術工学部長・工学博士)
1.滝学園本館と講堂を設計/ 国の登録文化財
 村瀬國之助という名前の建築家を知っている人は多くないのではなかろうか。国の登録文化財である滝学園本館と講堂の設計者と言えば分かっていただけよう。この建物以外で、彼の名前は、あまり登場しない。いわば、隠れた建築家といってよい。
 滝学園は愛知県江南市にある。名鉄江南駅前から西へ1.5kmほどの所にある進学校であるが、もともとこの学校は、1924(大正13)年6月、滝信四郎(のぶしろう)によって、滝実業学校設立計画が発表されたことに始まる。かくて、1926(大正15)年1月、私財100万円(当時)を投じた滝実業学校が開校することになった。
 滝信四郎が校主となった滝実業学校(現在の滝学園)は、13,500坪の敷地に、1926(大正15)年1月に柔剣道場が、同年12月に本館(RC造2階建て)が竣工。以後、理科室、寄宿舎、農場の建物などが建築された。1933(昭和8)年12月、しんがりの講堂が竣工。
 本館は、中央に時計塔を持つ学園らしい建築で、RC造2階建てのH形平面。建築面積は1,482uである。講堂の方は、RC造一部鉄骨造2階建てで、建築面積は626u。細部にはアールデコ装飾が見られる。
 学校建設の事情について、当時、丹羽郡の視学であった堀田安吉の思い出話によると、「とても暑い日に敷地の測量をして校舎の配置などを考えたものでした。1週間もあれこれと迷ったあげく、本校舎・体操場・柔剣道場などの位置を決定して平面図を作成し、これを中川(哲志朗)滝家代表に提出しました。これを基礎にして村瀬技師が設計図を作り、工事の請負も決定して、着工となったわけです」(文1)とある。
 村瀬國之助が、建築家としての力量を、学校の建物の設計で発揮したわけだが、詳細は不明。隠れた建築家といわれる村瀬國之助はどのような人物であろうか。


村瀬國之助(1872〜1946)
2.愛知県甚目寺村に生まれ、 工手学校で建築を学ぶ/ 1872年3月〜1895年7月
 村瀬國之助は、1872(明治5)年3月18日、村瀬傳左衛門の次男として、愛知県海東郡春富村大字方領三番戸で生まれている。春富村はその後、甚目寺村と合併し、その一部となる。彼は、方領学校(第二大学区第五番中学区内、海東郡第93番小学)で学び、1888(明治21)年5月、私立正心学校を卒業。その後、1892(明治25)年3月、武揚学校青年科を卒業(文2)。このとき、20才。
 その後、東京に出て、工手学校(工学院大学の前身)造家学科に1894(明治27)年9月入学。前期では、家屋構造法、建築材料、測量法、製図を、後期で、家屋構造法、和様建築法、仕様設計法、材料強弱法、製図を学ぶ。実質的な教育期間はわずか1年間で、1895(明治28)年7月に卒業。
 この時に卒業したのは、村瀬國之助を含めて5名であった。卒業證にある名前がすごい。教務主理としての辰野金吾と片山東熊の二人であるが、彼らは当時の建築界の巨匠で、辰野金吾は東京駅の設計者、片山東熊は赤坂離宮の設計者である。卒業した時に、村瀬國之助は23才になっていた。
3.陸軍省時代/ 1895年9月〜1901年6月
 村瀬が工手学校で建築を学んでいた時、日本は日清戦争の真っ只中にあった。1895(明治28)年2月、日本軍は、威海衛(現・中国山東半島)を占領し、清国(中国)の北洋艦隊を降伏させてしまう。先般、下関条約が締結された春帆楼(下関市)に行ったが、締結の部屋が現在も保存されていた。
 それはともかく、その後、ドイツ、フランス、ロシアによる三国干渉があり、1895(明治28)年5月に、日本はやむなく遼東半島を還付。工手学校を卒業した村瀬が陸軍省の雇員となったのは、こうした時期で、1895(明治28)年9月より半年間、清国威海衛に出張する。広島の宇品港から出港し、海路で威海衛に渡るわけだが、そこで彼は威海衛廠舎の建築工事に従事した。
 威海衛から東京に戻った村瀬は、臨時陸軍建築部技手として、本部で製図担当となる。1897(明治30)年10月、臨時陸軍建築部名古屋支部付となり、名古屋へ転勤となる。ここでは、建築調査掛として、製図および官有財産簿の事務を担当。兼務として、名古屋地方幼年学校新築現場の主任を務めるとともに、金沢、鯖江、敦賀の各工場へ出張している。
 村瀬國之助が28才になった1900(明治33)年5月から、京都帝国大学の建築設計主任(文部省建築課)となった(文2)。ここで1年間を過ごす。村瀬の20代は、陸軍の建築技術者としての経験をつむ。
4.中学校と役場の設計・工事監督/ 1901年7月〜1907年5月
 30才代にった1901(明治34)年7月から名古屋市立明倫中学校の設計および製図、1902(明治35)年1月から京都浄土宗中学校(設計および工事監督)、1903(明治36)年1月から名古屋浄土宗中学校および忠魂詞堂(設計、監督)、1903(明治36)年7月から甚目寺村役場、春富村役場、および森春尋常小学校(森春分校があったという)などの嘱託として設計、監督をした(文2)という。以上のように、仏教系の中学校建築や地元の役場関係の仕事をしている。
 後年、彼の設計人生の中で花を飾ることになる滝学園を設計することになるが、滝信四郎との出会いもこの頃ではなかろうか。滝は信心深い人物で、実業学校設立を目論んだとき、かって、陸軍の技術者を務め、浄土宗中学校などで設計経験のある村瀬を思い出し、登用したのかもしれない。
5.再び、陸軍の仕事・名古屋偕行社/ 1911年
 1907(明治40)年6月、再び臨時陸軍建築部名古屋支部内勤となり、製図設計、官有財産簿引渡し事務に従事。1911(明治44)年4月、名古屋偕行社新築(木造2階建て)のため建築技手嘱託となり、設計および監督を行ったという。村瀬國之助39才の時である。6年間ほどの中断があるものの、明治年間を通じて、陸軍の技手として仕事をしている。
6. 嘱託時代/1921年〜1925年
 大正後半になると、村瀬國之助は、地元の仕事が中心となる。彼にとっては、転機の時期といってよい。  一宮商工会議所は、1921(大正10)年、名古屋商工会議所の旧議事堂を買い受け、解体移築工事を行ったが、この解体移築工事に村瀬は関わっている(文3)。この頃、村瀬49才。  引き続き、1922(大正11)年4月に、村瀬は、一宮市市役所建築技術員嘱託(同年9月まで)となった。1922(大正11)年9月に市制施行を控えた一宮の仮庁舎の整備、あるいは新市役所庁舎の準備業務などの仕事があったと思われる。  半年後の1922(大正11)年10月には、名古屋銀行建築事務所嘱託(大正12年6月30日まで)となり、1923(大正12)年竣工の名古屋銀行一宮支店(鈴木禎次設計)に関係したようだ。
7.滝兵の顧問建築家時代/ 大正初年頃〜1946年1月
 村瀬國之助は、明治の末年あるいは大正初年頃に滝信四郎の面識を得、蒲郡の料理旅館常盤館(1912(大正元)年)や滝家本宅の仕事をしたという(注1)。蒲郡の常盤館は、全国のトップをきって茶代を廃止し、人気を博したという旅館である。  滝信四郎は、1921(大正10)年、先代から滝兵商店を継承するが、その後の1924(大正13)年、10年計画で本宅の新築にとりかかった。根拠は見つかっていないが、こうした建物の建築にも村瀬國之助はかかわったという(注1)。
 昭和に入ると、村瀬は滝家の建築顧問的存在となっていたようだ。この時期の滝学園本館(1926(昭和元)年)と講堂(1933(昭和8)年)が、建築家としての村瀬國之助の代表的なものになる。
 村瀬國之助が57才になった、1929(昭和4)年4月に、古知野町役場庁舎(木造)が竣工している。村瀬の設計、工事監督という。寄棟造り2階建てで、屋根窓付き。1954年に古知野町は江南市になり、江南市役所として1964年頃まで使用された。さらに、1932(昭和7)年5月、甚目寺尋常小学校講堂が、村瀬の設計、監督で竣工している(文2)。
 蒲郡の常盤館前の竹島橋も村瀬國之助の設計。橋は、幅2間、長さ4丁(約430m)で、1932(昭和7)年に完成し、滝信四郎により寄進された。施工は小原善太郎。
 1935(昭和10)年3月、地元の要請で、滝信四郎は三谷子安弘法像を建立したが、この子安弘法像の原型は、愛媛県伊予小松町の香園寺にある子安弘法像をかたどったもので、高さ30mのRC造。設計は村瀬國之助、施工は鬼頭三郎である。
 1936(昭和11)年10月には、RC造の近代的自由様式の滝兵本社ビル(地下1階、地上6階、延べ床面積約2,300坪)が完成(文4)。滝信四郎の社長時代のことで、村瀬家に滝兵本社ビルの模型があったこと(注1)から、村瀬國之助(当時64才)の設計ではないかといわれるが、根拠資料は発見できなかった。
 村瀬國之助は、戦後の1946(昭和21)年1月、蒲郡ホテルの改装工事中、病死(享年77才)するが、まさに、滝家の仕事で光を発し、その現場で死したという人生であった。國之助長男伝一郎は、「父村瀬國之助は、滝にかわいがられ、仕事を貰っていた」(注1)という。村瀬國之助は、滝家の顧問建築家であったといってよい。


滝学園校舎(1926年竣工)

滝学園本館(1926年竣工)


滝実業学校(現滝学園)配置図(部分)


旧古知野町役場(1929年竣工)
8.村瀬國之助の人柄
 村瀬國之助は、厳格で几帳面な性格で、孫たちに対しても同様だったようだ。例えば、おやつの時は、3時になるまで座って待たされたという。座布団を置くときも畳の縁に平行にしないと叱られたという。孫たちには、怖い存在で、コチコチといった印象を与えていたようだ。また、酒好きでもあったが、毎日1合と決め、それだけしか呑まず、自分自身にも厳しかった。
 村瀬國之助は、出張以外は、終生、甚目寺の生家に住んだようで、住まいには、仕事場のような部屋があり、製図台があった。引き出しの中には、青図の図面がたくさん入れてあり、製図用の烏口も見られた(注1)という。
9.名古屋の建築界を風靡した 工手学校卒業生
 村瀬國之助が工手学校(現在の工学院大学)造家科卒業であることで、思い出すことは、この時期、名古屋の建築界には工手学校卒業生が活躍していたことである。  卒業年次別に見ると、1890(明治23)年7月卒業(3回)の西原吉治郎(愛知県庁)がトップ。次は、1895(明治28)年7月卒業(13回)の村瀬國之助。さらに、1897(明治30)年2月卒業(16回)の広瀬久彦(広瀬商会)、1897(明治30)年8月卒業(17回)の神保芳松(名古屋市役所)がいた。この他、根津忠太郎(愛知県庁)、鈴木庄三郎(名古屋市)、瀬戸文吾(1893(明治26)年2月卒)などもいた。  西原吉治郎は愛知県営繕係、神保芳松は名古屋市建築課、広瀬久彦は建築施工業(広瀬商会)で、各分野で中心的人物として活躍した。村瀬は陸軍建築部ということで、奇しくも同窓生4人が名古屋における建築界の主要分野で活躍していた。  つまり、明治中期から後半にかけての名古屋では、工手学校卒業の建築家が一世を風靡していたと言えるのではないか。村瀬國之助が隠れた建築家となってしまったのも、こうしたこと自体が忘れられたからである。隠れた建築家・村瀬國之助の再発見により、名古屋における工手学校出身の建築家の存在を強く示すものである。

旧甚目寺尋常小学校講堂(1932年竣工)
◆ 謝辞:村瀬國之助については、滝学園現理事の滝勝夫氏、および村瀬正徳氏(國之助孫)のご協力を得ました。感謝いたします。 注1 村瀬國之助の孫・村瀬正徳氏の話による。父(國之助の長男伝一郎)は銀行員であったために、同居はしていなかったという。
注2 滝兵ビルの設計者の記録はないが、國之助の長男伝一郎がそのように言っていたという。また、村瀬家に滝兵ビルの模型写真があることから、関係があったのではないかという。
文1 滝学園「滝学園 創立四十周年誌」
文2 村瀬國之助の経歴書
文3 一宮商工会議所「一宮商工会議所65年のあゆみ」    1986年
文4 タキヒョー梶uタキヒョー250年史」2002年