和紙の楽しみ 3
ふすま(襖)の歴史
尾関 和成
( 渠頗\紙店 代表取締役)
ふすま(襖)の由来
 和紙は仏教の伝来とともに各地で生産され、公家、武家のみならず、一般の人にとっても日常生活のなかに深く取り込まれてきました。なかでも建築物においては、「ふすま」「からかみ」と呼ばれた間仕切りとして、日本の家屋には欠かせないものとして使われ、なじみ深いものになりました。そしてそれは、日本の建築様式の変遷とともに変化してきました。
 「襖(ふすま)」という漢字は、衣偏に「奥」と書いて「襖」となっています。この字からは、身体にまとう「衣」のことと、空間的な「奥」というものが連想されます。また「襖」は、「伏す」あるいは「臥す」に由来し、「衾」の字が使われていたとも言われています。「衾」は本来、寝るときにまとうもの、身体の上に掛けるものという意味で、上掛けとしての寝具であったのです。一方「障子」とは、寒さや風や人の目などを「さえぎ(障)隔てる」ものの意味とされています。
 ふすま(襖)が使われ始めたとされる平安時代は、寝殿造りと呼ばれる住居であり、周知のように、板敷きの床に丸柱が立ち並ぶだけで天井もない骨組みだけのような建物です。このような開放的な空間に人々は、几帳や屏風や障子などによって柱間や内部を仕切り、帳台や畳などを置き、そのつど適切な居住空間とすることによって、日常生活の場としていました。
 寝殿造りとともにふすまの原型が確立され、公家の記録や絵巻などによって、平安時代の寝殿造りの住宅には、すでに、ふすま(襖)の原型を見ることが出来ます。
 住居の帳台(チョウダイ)といわれる寝所は、平安初期には、帷帳(トバリチョウ)という布を垂れ下げて空間が隔てられていたものでした。それが平安末期になると、帷帳よりも、衾(フスマ)障子で構成された帳台の方が多く用いられるようになっていきました。その頃になると、仕上げの材料によって絹障子、布障子、紙障子、板障子など、さまざまな形式の障子が作られました。木の組子格子の表裏に絹や布や紙を張った障子が現在のふすま(襖)の原型です。また板障子は、板を下地として紙や布を張ったものとされていますので、現在の戸襖の原型ともいえるでしょう。
 当初の設置方法は、衝立の原型ともいうべき台脚の上に立てる衝立障子がほとんどでした。その後、柱の間にはめこんだ襖仕立の壁としての押障子から、鴨居と敷居の間に立て、柱間を引き違いに動くようにした形式の鴨居障子ないしは遣戸障子などが使われるようになります。この引き違い障子が、現在のふすま(襖)の原型であるといえます。また、現在、「障子」と呼んでいる組子格子の片面に紙を張ったあかり障子も、この平安末期には原型ができていました。
寝殿造り内部のしつらい。12世紀の関白忠実東三条殿。几帳や屏風、はめこみの障子(一部は引き違い障子)、中央には寝るときの囲いで帳台といわれた、布を垂れ下げた「帷帳」がおかれている。 (江戸時代の有識故実著『類聚雑要抄』より)
ふすま障子とからかみ障子
 寝殿造りの住宅の屏風や衾障子には、中国風の画題に代わって、「やまと絵」が描かれるようになります。日本的な自然や身近な情景を描いた「名所絵」、四季の風物を描いた「四季絵」などがあります。また鎌倉末期には、禅宗の影響から生まれた水墨画なども描かれています。これらを「ふすま障子」と呼びます。
 また、「からかみ」と呼ばれる「きら刷り」の文様唐紙を表に張った障子も登場してきました。これは中国渡来の文様を刷った唐紙を国産化したのもで、この文様紙を張った障子を「からかみ障子」と呼んでいます。「からかみ」という言葉は、この「からかみ障子」が庶民の間に普及する過程で、「ふすま」の別称としても用いられてきました。
 「春日権現験記絵」に描かれている意匠をみると、公家の住まいにはやまと絵、僧侶の住まいには水墨画か唐紙、その他は唐紙のみといった傾向が現れています。住まい手の身分に応じて障壁画の技法が使い分けられていました。
鎌倉時代の公家屋敷、左大臣源俊房の邸宅。華麗なふすま障子で仕切られ、すべて引き違いとなっており、畳が敷詰められた座敷となっている。(14世紀初めの『春日権現験記絵』より)
権力の象徴としての障壁画
 鎌倉・室町時代(12〜16世紀)には、寝殿造りが変化して書院造りへと移行。書院造りは、桃山・江戸(初期)時代(16〜17世紀)にいたって武士階級の住宅として完成します。寝殿を中央においた住宅から、接客機能を中心とした住宅への転換であり、武士階級における支配者にとって、接客・対面の儀式の場を権力の象徴として演出することが重要だと考えられるようになりました。
 その演出の道具として障壁画が用いられました。主にそれは、ふすま障子と張り付け壁を連続させた部屋を取り囲む面全体を、金地極彩色の金碧画で飾られていました。画題としては、松、杉、檜、鷹、鶴、鳳凰、虎、龍などが好まれました。1602年に徳川家康が建てた二条城の大広間の「松に鷹図」は巨松を主題としており、松は四季を通じて枯れることなく緑をたたえる樹木であり、永遠の繁栄を象徴しています。また、描かれている大鷹は威嚇的で攻撃的な姿勢をしており、徳川家の絶対的な権力を誇示するための手段であったともいえます。
鎌倉時代の僧侶の屋敷。右側の付書院のある部屋は、半蔀の内側にあかり障子が、座敷内はからかみ障子となっている。(14世紀『慕帰絵詞』より) 二条城二の丸御殿大広間の襖。江戸幕府の歴代将軍が公式の対面儀式を行う重要な場所。襖には金箔を敷き、繁栄をあらわす巨大な松を強い色彩で描いて将軍の権威を演出。天井は二重折上げ格天井。黒漆塗りの格子の間には金地極彩色の模様が入っている。壁は張付壁となっており、襖と連続した絵が描かれている
桂離宮の古書院。江戸時代につくられた八条宮の別荘で、数寄屋風書院造りの代表作。からかみ障子が使われている。文様は桐、胡粉地に黄土と雲母で摺られている 17世紀末。客間にはふすま障子やからかみ障子が使われ、となりの布団部屋にはあかり障子と使い分けられている。(菱川師宣『よしはらの体』より)
加飾を捨てた数寄へ
 このような豪華な金碧障壁画が展開されていく一方で、加飾としての「かざり」を捨てた「数寄」の文化が生み出されていきました。「侘び茶」による「侘び数寄」の世界は千利休によって確立されましたが、侘び茶の世界として生まれた茶室建築の中にも、数寄屋の装飾のない自然の素材を生かした簡素な美しさが見られます。
 また、数寄屋造りが書院造りに影響を与えたものとして数寄屋風書院造りがあります。代表的なものとして、当時、京都に建てられた八条宮の別荘、桂離宮が知られています。とくに内部の間仕切にはからかみ障子が、外側にはあかり障子が多く用いられています。
 これらのからかみ障子には、黄摺りや雲母摺りで文様が施されています。控えめであるとともに、光や視線の変容により落ち着きのある柔らかな感じを漂わせています。江戸時代には、町人に対する奢侈禁止により、からかみ障子やあかり障子の大衆化が進みました。
18世紀中頃。江戸時代になり庶民の住まいにも障子類が普及する。室内には桐文様のからかみ障子、外部にはあかり障子。(鈴木春信『風俗四季哥仙』雪の庭より)