新連載 再見 東海地方の名建築家
故郷に錦を飾った建築家・平林金吾
瀬口 哲夫
(名古屋市立大学芸術工学部長・工学博士)
1.名古屋市庁舎建築設計懸賞図案一等金賞受賞(1930年5月)
 「貴殿の応募せられたる当市庁舎建築設計懸賞図案、審査の結果、金賞として当選決定相成…」という葉書が、東京市青山にある平林金吾の自宅に届いた。差出人は名古屋市建築課、差出日時は、1930(昭和5)年1月27日午後6−8時である。
 一等金賞の平林金吾は、愛知県西春日井郡豊山村(当時)の出身であったので、まさに故郷に錦を飾る快挙で、大喜びした。このとき彼は、36歳の脂が乗り切った時期にあった。  名古屋市庁舎の設計懸賞図案募集は、1929(昭和4)年10月に発表されたが、平林は、復興建築助成鰍フ仕事を終えた後、こつこつと図面を描いた。この図案募集では、東洋趣味を基調とした近世式を要求しており、いわば建物外観の意匠を競うものであったところから、彼は、名古屋城を思い浮かべながら、新しい名古屋市庁舎の発想を得たという。
 「私は名古屋の近郊西春日井郡豊山村で生まれ、毎日お城を眺めて育ちましたので、あの金鯱城が頭にコビリついていました。だから、応募にあたってお城を取り入れて、ローカル・カラーを鮮明に浮き出すことに苦心しました。たまたま、当時の建築界に東洋趣味、日本趣味が台頭していましたので、これを加味したのでしたが、その表現が屋上の高塔/名古屋城の櫓なのです」(文1)と語っている。その塔は、「頂上に金鯱の型…を取った[鴟尾]を立て、濃緑色の釉薬瓦本葺き方形屋根、切妻付き二層塔屋となりました」(文2)と言う。
 名古屋市庁舎は、設計当初から、名古屋城を意識した建物であった。審査員の一人である土屋純一は、「中央の高塔が名古屋城天主閣をかたどったもので、非常に興味ある優れたものであった」(文2)と評価した。


若き日の平林金吾
2.名古屋市建築課による実施設計と竣工(1933年9月)
 名古屋市庁舎設計懸賞図案募集は、1930(昭和5)年1月15日正午に締め切られ、全国各地から559通の応募があった。一等の賞金は五千円。二等銀賞はニ千五百円。三等銅賞は五百円。この懸賞図案は、主催者側が、平面図を提示した上で、建物の設計を競うというもので、こうした設計競技がほとんどない現在ではやや理解しにくい。募集要項の東洋趣味という規定が効果を持ったようで、応募案を見ると、帝冠様式のものが多い。
 佐野利器審査委員長を中心に、1930(昭和5)年1月25日と26日の二日間にわたって審査が行われた。外観意匠を中心に競うということから、応募案の立面図と透視図が主に審査された。
 入選案と応募案は、紀元節(1873年2月11日)から3日間、鶴舞公園の市立美術館で公開された。当時の新愛知新聞に、「当選者の設計図案、配置図、各階平面図、立面図、断面図、透視図、説明図一組と、応募者五百余名の透視図全部を陳列して一般公開することとなった」とあるので、平林は設計図書全部を作成していることがわかる。
 名古屋市建築課では、平林金吾案をもとに、実施設計に入る。1931(昭和6)年11月3日午前中に地鎮祭を挙行して竣工は、1933(昭和8)年9月6日。
 平林金吾は、出来上がった市庁舎について、「私の苦心の結晶というべき塔が設計通りに完成し、狙いどころが巧みに表現されていますのは、私として最も大きな喜びです」(文1)と言っており、ほぼ応募案通りの外観で完成したことを確認している。
 竣工した建物には、塔に大時計が取り付けられていること、塔の屋根の軒先の鬼の面が付いていること、窓が小さく数が多くなっていること、さらに玄関まわりや正面細部意匠に設計図にはない変更が見られる。
3.復興事業で活躍〜平林金吾の経歴
 名古屋市庁舎の原案を出した平林金吾は、1894(明治27)年、安藤喜代三郎と(尾崎)つねの三男として、西春日井郡豊山村大字豊場で生まれた。やがて母つねの姉鐘(ちょう)の嫁ぎ先の平林家の養子となり、平林姓を名乗るようになる(文3)。こうしたことから、金吾11歳のとき、東京に移住。東京の芝中学校を卒業(1913年)し、東京高等工業学校(現・東京工業大学)建築科に入学。1916(大正5)年7月に同校を卒業し、滝川鉄筋コンクリート会社に入社。この時に初めてRC造倉庫の工事を経験した。ここで高橋貞太郎に出会う(注1)。1918(大正7)年3月、高橋貞太郎のすすめで、内務省明治神宮造営局技手となり、明治神宮宝物殿の工事監理に従事。完成後の1922(大正11)年12月、宮内省匠寮に技手として転職(高橋貞太郎が宮内技師として上司にいた)。1922(大正11)年12月、千鶴を妻に迎える(注5)。
 さらに、1924(大正13)年4月、東京市の臨時建築局技師となる。前年の1923(大正12)年9月に関東大震災が東京・横浜を壊滅状態にしており、その復興にあたる。とくに、東京市の震災復興小学校の建築に従事した。彼が関係した鉄筋コンクリート造3階建て小学校は53校にのぼったという(文3)。53校の内容が不明であるが、初期の復興小学校に大きく関係していたようである。これだけの数の小学校を短期間に建築するということで、標準規格を定め、工事監理を行った。
 臨時建築局の仕事が一段落した1927(昭和2)年4月、麹区山下町にあった復興建築助成鰍フ技師として転職する。政府は、耐火建築促進のために、補助金制度を設けたが、その他に、耐火建築資金の低利貸付や建物を建築後に割賦販売するための会社を設立していた。この会社は、平林金吾が転職した復興建築助成鰍ナある。ここでも高橋貞太郎が技師長として上司にいた。平林は高橋とは住宅などを共同設計している。
 ここでの仕事は、低利貸付などで、東京市および横浜市の商店街などの密集市街地において、耐震耐火建築、高層建築、共同建築を増し、市街地の不燃化を促進することであった。
 1938(昭和13)年12月、復興建築助成鰍課長で退職するが、在職した約12年間に250棟を援助したという。「昭和4、5年ごろには、ビル建築ラッシュが出現し、やがて貸室過剰時代が到来するほどにこの会社は復興に貢献した」(文4)と言われた。平林金吾が名古屋市庁舎の設計懸賞図案の応募したのは、この時期である。
 1939(昭和14)年1月、昭和建築事務所所長になり、海軍の木更津航空隊施設の設計を委託される。この時期、忠霊塔懸賞設計競技(大都市に建築するもの(第二種)部門)で、昭和建築事務所として佳作に入選している。
 1945(昭和20)年の終戦後、1950(昭和25)年までは、GHQ関係の建物実測図作成などを行っているが、これは、GHQの接収建物の実測ではないかと思う。
 1952(昭和27)年、虚ス林大沢一級建築事務所を開設し、所長となる。この事務所は、その後、平林多田建築事務所と社名変更したのち解消する。
 業績書によると、都立大森高校(1957、1958年度)、目黒区清水町団地建物(1958年度)、都立西高校(1959、1961、1963年度)などを東京都から委託設計している。
 また、建築団体の活動として、日本建築学会評議員と理事を、1951年度と1952年度の二期度務める他、日本建築学会正会員(185号)でもあった。


朝鮮貯蓄銀行本店新築設計懸賞一等当選図案(1935)

建築学会会館建築意匠設計懸賞第一等当選図案(1922年)
4.四大都市でコンペ一等入選〜平林金吾の作品
 平林金吾は、日中は会社に勤めているため、設計競技に応募して入選する設計競技のための建築家といった存在であった。南京忠霊塔、東京商工奨励館(佳作入選)、関東大震災記念建造物、軍人会館、大連駅舎、大阪美術館、東京市忠霊塔(佳作入選)などの設計競技に参加(文3)しているようだ。
 最初の一等入選は、工手学校卒(1918年)の岡本馨(注3)と連名で応募した、大阪府庁舎設計懸賞競技(賞金八千円)である。これは大阪府営繕課が実施設計を行い、1926(大正15)年にRC造7階建て新庁舎(大阪市東区大手前之町)が建築されている。「原案は修正することなく建築された」と言う。平林金吾20歳後半のことである。
 次いで、1922(大正11)年9月の日本建築学会の建築会館の設計懸賞競技に応募し、一等入選(賞金千円、蒼穹社・平林金吾・岡本馨案)と三等入選(賞金五百円、岡本馨・平林金吾案)した。蒼穹社というのは2人のチーム名であろう。応募数は46。審査員は、岡田信一郎、桜井小太郎、鈴木禎次、田辺淳吉、中條精一郎など7名であった。建坪は150坪内外で、地階の他7層とするとあった。ところが、1923(大正12)年9月の関東大震災で建築会館建設計画は頓挫する。
 1928(昭和3)年になって、復興建築助成鰍利用すれば建築会館建設が可能ということで、改めて設計競技が実施された。この会社は、平林金吾が勤めていた会社である。結果は、岸田日出刀など5名の審査員によって7案が選ばれ、その中から、復興建築助成鰍フ矢部金太郎案によって実施することになった(文5)。矢部案の建築会館には、若い時分から出入りし、思い出のある建物であった。
 三つ目の一等入選が、1930(昭和5)年に設計競技が行われた名古屋市庁舎(1933年、賞金五千円)で、延べ床面積約24,400uのSRC造、地下1階、地上5階建の大建築である。時代の影響もあって建物の外観は帝冠様式であった。
 1935(昭和10)年に完成した朝鮮貯蓄銀行本店(現韓国第一銀行本店、ソウル特別市忠武路1街)の設計懸賞競技にも参加。一等入選している。この建物は、RC造4階建てで、正面に4本の溝彫のある古典様式建築であった。
 以上のように、名古屋、東京、大阪、ソウルと四大都市の建築設計懸賞競技において、平林金吾案(連名を含む)は、一等当選を果たしている。朝鮮総督府施政25周年記念博物館(1935年)コンペでは佳作入選している。彼は、コンペ建築家と呼ぶにふさわしい人物である。
5.建築の伝統を意識した建築家
 実施設計の全貌ははっきりしていないが、公共建築以外にも少なくとも、秋春雄邸(文京区千駄木、木造2階建)や佐藤眼科病院(横浜市中区尾上町、1931年、RC造3階建て)などの民間建築も行っている。  平林金吾は、「建築は一つの造形美である。そこには生活があり、伝統の血が流れ、世界文化との交流がある」と語る建築一筋に人生を送った建築家である。「日本古来の建築美をいかし、民族性豊かな新しい建築技術を開発し世界に示したい」という情熱を持っていたという。コンペ建築家の名前に恥じない気構えを持っていたことがわかる。
大阪府庁舎・府会議事堂一等当選図案(1926)
注1:高橋貞太郎(1892年〜1970年):東京帝国大学工科大学建築学科卒業(1916年)。帝国ホテルの建築家として知られる。
注2:平林金吾が手がけたとされる小学校として、区立湯島小学校(1926年)、区立柳北小学校(1926年)、明治小学校、東陽小学校、臨海小学校、本郷小学校などがある。
注3:岡本馨:1918(大正7)年、工手学校(現工学院大学)建築科卒。平林は、明治神宮造営で同僚として出会う。岡本は、大阪府庁舎や建築会館のコンペでは平林と共同応募するが、単独で、大阪市立美術館(二等)、神戸市公会堂(佳作)、第一生命保険相互(当選)のコンペに応募している。
注4:平林金吾は1894(明治27)年11月27日に生まれ1981(昭和56)年12月29日に没した。行年87歳。
注5:平林金吾は三男一女に恵まれ、長男博(東大建築学科1947年卒業)は鹿島建設に就職し、新宮殿の工事を副所長として担当している。
 なお、本文をまとめるにあたり、三男の平林晃さん及び長崎美代子さん(長女)のご協力を得ました。また、御主人の故・長崎誠三さんの資料を参考にさせていただきました。感謝いたします。
文1:大阪毎日新聞(1933年10月1日)
文2:水谷盛光『名古屋城と城下町』1979年、名古屋城振興協会
文3:平林金吾メモ(平林晃家所蔵)
文4:日本建築学会『近代日本建築学発達史 上』1972年、丸善
文5:日本建築学会『日本建築学会百年史』1990年、丸善」


名古屋市庁舎一等金賞案透視図下図(1930年)