東海地方の寺院建築  6
天台・真言宗の密教本堂
杉 野  丞
(愛知工業大学建築学科教授)
古代の仏堂
 古代の寺院では、仏塔を中心としてその両脇や後方に金堂を配し、周囲に回廊を廻らす伽藍(飛鳥寺式等)をとったが、次第に仏塔に代わって金堂を伽藍の中心に配するようになり(薬師寺式等)、その後高大な金堂をもつ伽藍(東大寺式等)が造営されるようになった。これは、仏塔に奉安された仏舎利への信仰から金堂に安置される仏像への信仰へと変化したためで、奈良時代に国分寺・国分尼寺が全国に造営されると、規模の大小はあるものの金堂を中心とする伽藍観が定着するようになった。
 平安時代には、最澄によって天台宗、空海によって真言宗がもたらされ、天台宗では比叡山延暦寺、真言宗では高野山金剛峰寺を本山として開いて、全国各地に布教を行って庶民の信仰を得ると、奈良の南都六宗に代わって仏教界の中枢を占めることになった。
 天台・真言宗は密教と呼ばれ、天台宗では「教観二門」として法華経の学問とともに止観の実践修行を唱え、真言宗も大日如来の教義とともに実践修行を唱えたため、共に加持祈祷などの秘密儀式の修行の場を必要とした。奈良仏教では「尊像の空間」が求められたが、平安仏教の密教では「修行の空間」が求められたのである。さらに、両宗は仏法を説いて多くの信仰を集めたため、信者の「礼拝の空間」が求められるようになった。そのため、平安時代には「正堂」と「礼堂」を2棟並べた「双堂(ならびどう)」と呼ばれる仏堂、さらに建物を「正堂」に「礼堂」を加えて2つの空間を接合する仏堂が考案された。そして、鎌倉時代には本尊と修行のための「内陣」、信者のための「外陣」と呼ばれる2つの空間を備えた密教本堂が成立することとなった。
古代仏堂から中世仏堂への発展過程
中世の仏堂
 密教本堂は、五間堂・七間堂・九間堂などと呼ばれる正方形の平面とし、「母屋(もや)」と「庇(ひさし)」からなる構造を主体とする平面構成をとった。五間堂の場合、構造的には3間×2間の「母屋」と周囲1間の「庇」からなり、平面的には前方の2間を「外陣」、後方の中央3間を「内陣」、その両脇を「脇陣」、背後の1間を「後陣」とし、中世から近世にかけてこの形式が全国に普及した。それに伴い、古代の金堂に祀られた丈六仏(仏像高1丈6尺)は姿を消し、中世には本尊仏が小型(3尺〜6尺)の仏像となって宮殿に安置され、来迎柱前の須弥壇に祀られるようになった。その後、天台・真言宗は鎌倉新仏教(浄土宗・浄土真宗・禅宗・日蓮宗・法華宗・時宗他)の台頭により、一部の大寺を除いて衰退することとなった。幸い、東海地方には中世から近世の密教本堂が少なからず残されているので、中世の滝山寺本堂、高田寺本堂、近世の大御堂寺本堂を通して密教本堂の特質を眺めてみよう。
滝山寺本堂(愛知県岡崎市滝町)
 当寺は、薬師如来を本尊とし、天台宗に属し、「瀧山寺縁起」によると奈良時代の役小角(修験道の祖)の創立と伝え、保安年間(1120−1123)に比叡山より下った仏泉上人により中興された古刹で、現在の本堂は和様に禅宗様が混入しており南北朝時代(1336−1392)の建物とみられ、当地方の現存最古の密教本堂である。
 本堂は、桁行5間、梁間5間、寄棟造、桧皮葺の建物である。平面は前方2間を「外陣」、後方の中央間口3間を「内陣」、その両脇間口1間を「脇陣」、内陣の背後1間を「後陣」とし、四周に落縁を廻らしている。周囲柱間は、丸柱上に三ツ斗をおき、正面5間に桟唐戸、両側面の中央に窓、東側面の後方より2間目に片引き戸、背面の中央間とその脇間に片引き戸を入れ、その他は板壁としている。外観は、柱が太く、棟が低く、軒を深く出しており、全体にどっしりとした重厚な姿を見せている。「外陣」では、「内陣」正面の母屋柱から側柱に4挺の大虹梁を渡し、信者のための広い「礼拝の空間」を造り出している。密教本堂では中世の早い時期から広い「礼拝の空間」を獲得するため、「外陣」内部の4本の母屋柱を省略することが試みられ、初期には中央2本の母屋柱が除かれ、その後両脇の2本の柱も省略されるようになるが、滝山寺本堂はその完成された姿を示している。「内陣」では後半に仏壇を設けて本尊仏を宮殿に安置している。宮殿は、禅宗様の本格的のものである。天井は、「外陣」と「内陣」の母屋部分を棹縁天井とし、周囲の庇部分を化粧屋根裏としている。このように、当本堂は中世初期に完成した典型的な密教本堂といえる。
滝山寺本堂 平面図 滝山寺本堂 正面図
滝山寺本堂 横断面図 滝山寺本堂 縦断面図
高田寺本堂(愛知県西春日井郡師勝町)
 当寺は、薬師如来を本尊とし、天台宗に属し、本堂は滝山寺ときわめてよく似ている。桁行5間、梁間5間、入母屋造、桧皮葺、平面は前方2間を「外陣」、その奥中央間口3間を「内陣」、その両脇間口1間を「脇陣」、内陣後方の1間を「後陣」とし、四周に落縁を廻らしている。周囲柱間は、丸柱に出三ツ斗をおき、正面5間と両側面前2間に桟唐戸、背面の中央間に桟唐戸を入れるなど、柱間装置に禅宗様を多用している。「外陣」では「内陣」正面から側柱に4挺の大虹梁を渡し、「内陣」では後半に仏壇を造り、禅宗様の宮殿に本尊を安置している。この本堂は滝山寺本堂と比べて規模・構造ともほぼ一致しているが、鎌倉時代末から室町時代初期とやや時代が下がるため、木柄が細く、建ちが高く、組物が複雑になるなど、禅宗様の傾向が強まっている。
高田寺本堂 平面図 高田寺本堂 正面図
高田寺本堂 横断面図 高田寺本堂 縦断面図
大御堂寺本堂(愛知県知多郡美浜町)
 当寺は、大同年中(806−810)に空海が一千座の護摩を修し、承暦年間(1077−1081)に白河天皇の勅願寺として大御堂寺と命名されたと伝え、その後源頼朝、豊臣秀吉、徳川義直などの庇護を受けた名刹で、現在の本堂は宝暦4年(1754)に建立されたものである。
 本堂は、前方2間を「外陣」、後方中央間口3間を「内陣」、その両脇間口1間を「脇陣」とする五間堂で四周に落縁を廻らし、入母屋造、本瓦葺、一間向拝付とする。周囲柱間は、丸柱上に頭貫・台輪を通して出三ツ斗を入れ、「外陣」の正側面の柱間を開放し、西側前端と背面中央間に引違い戸を入れる他は板壁としている。「外陣」では「内陣」から4挺の大虹梁を渡し、「内陣」では「後陣」を取り込んで奥行3間とし、後半に来迎柱を立てて須弥壇に尊像を祀っている。天井は、「外陣」と「内陣」の母屋部分を格天井とし、周囲の庇部分を化粧屋根裏としている。この建物は、中世の滝山寺・高田寺本堂と同様の五間堂であるが、江戸時代のものであって向拝が付き、「外陣」の正側面が開放され、「内陣」が拡張されて「後陣」が消滅し、来迎柱が立つなどの変化が現われている。
大御堂寺 本堂 全景 大御堂寺 本堂 外陣
むすび
 天台・真言宗は、鎌倉新仏教の諸宗が中世から近世にかけて広い階層の信仰を得て勢力を拡大し、小規模な堂宇から「信者の礼拝」のための大規模な本堂へと発展したのに対し、古代の仏堂の伝統を引き継いだ五間堂・七間堂などの仏堂形式を一貫して守り続けていた。このことは、「尊像の空間」、「修行の空間」、「礼拝の空間」からなる密教本堂を遵守することで、両宗が時代を超えて密教思想を守り続けてきたことを示すものといえよう。