保存情報第44回
データ発掘(お気に入りの歴史的環境調査) かしもの明治座 保浦文夫・鈴木奈々/ヤスウラ設計


地元のランドマークとなっているかしもの明治座


花道のスッポン


所在地 岐阜県恵那郡加子母村下桑原
延床面積 646u 舞台面積 154u
収容人員 約600名
連絡先 加子母村教育委員会
     (TEL 0573−79−2111)
岐阜県重要有形民俗文化財
■ 発掘者コメント
 “温故知新の精神を育む明治座歌舞伎”と紹介されている「地芝居」の拠点「明治座」は、南北街道(飛騨街道)付知の宿場から舞台峠の途中加子母村にある。
 1894年(明治27)加子母村下半郷5部落の村民により建設され、地芝居の他時流に乗った演目の芸能は人々から愛され続けられてきた。戦後になるといったん途切れかかった地芝居だが、1973年(昭和48)に加子母歌舞伎保存会が発足し、毎年秋に子どもたちも加わり多彩な芸題で知られる加子母歌舞伎大公演が開催されている。クラシックコンサート、演劇や独演会、映画上演など、最近では安藤忠雄の講演も行われた。
 建設当時、徳川藩の院政で檜や松材は使えず“檜一本釘一本”と言われた時勢、木造2階建、延べ646u、外壁は漆喰と板張り、屋根は板葺きで、天井顕しの粗末な建物であった。1920年(大正9)屋根を瓦に葺替え、天井も設けられた。天井が原型なら「重文」に指定されたと言われている。
 日本の誇る文化、歌舞伎の底辺を支える「地芝居」を生んだ村民たちの心意気が「客席含む劇場形式舞台建築」から伝わってくる。
 舞台と客席(平場・2階桟敷)の一体空間を構成する長さ8間の樅の丸太と登り梁架構は当時の知恵を感じさせる。“廻り舞台”は今でも人力で動いている。“本花道と仮花道”、奈落から通じる“スッポン(花道に出る穴)”“囃子場”“楽屋”は複数あり、“小道具部屋”客席1階の桝席、(現在はマセ(木の仕切)は無く渡板だけ)、2階は三方に桟敷席、一部桝席もある農村舞台建築である。
 建設当時、地元の娘たちから寄付された屋号と名前がデザインされた引幕からは、当時の娘たちの粋な心意気が伝わる(村文化財)。板割看板(公演後の役者名)も歴史を語る。
 今も活きる“明治座”は常時見学できる。
登録有形文化財 羽田八幡宮 山田正博/建築計画工房


素朴な門構え


南側縁側と土庇が庭と一体空間

所在地 豊橋市花田町
■紹介者コメント
 羽田八幡宮は豊橋駅の西に位置している。社殿までの参道には朝市が1と5の付く日に開かれ、近隣の人々によって賑わいを見せている。その参道の中程に木造瓦葺きの門が建ち、羽田八幡宮文庫のあった位置を示している。文庫は幕末の1848年(嘉永元)、羽田野敬雄を中心に有志によって羽田八幡宮境内につくられた。
 建家は木造平家建、片入母屋造、桟瓦葺き。1812年(文化9)まで今の田原市にあった建物で二度の移築を経ている。主に三部屋で構成され、南面縁側および土庇によって庭と一体の空間をつくっている。座敷は閲覧室として使用され、広く一般に対しても書籍の閲覧が許され、書籍の貸し出しも行われていた。さらに学者の公開講義も開かれるなど、近代図書館の先駆けとして高く評価すべきものだった。
 蔵は文庫の書庫として建てられた。土蔵造りで座敷の西隣にあり、庇で座敷の廊下と繋げられている。
 明治に入り八幡宮の神主屋敷はいくつにも分割され、第三者の手に渡っていった。この建物は、1998年(平成10)にやっと羽田八幡宮社務所として還り、2000年(平成12)門及び蔵とともに登録有形文化財の指定を受けた。
 蔵書は一万冊を超えていたが、文庫の経営に行き詰まり1907年(明治40)に売却された。しかし、その散逸を惜しむ人々によって買い戻され、1911年(明治44)豊橋市が買収した。1913年(大正2)羽田文庫旧蔵本を基に豊橋市立図書館が開館した。
 1983年(昭和58)には豊橋市中央図書館として羽田八幡宮と同じ駅西に新築され、今日に至っている。
延床面積 社務所離れ:94u(江戸中期頃)     蔵:20u(1848年)  * 門の間口3m(1848年)