JIAと私@

これ迄の活動を振り返りながら
鋤納 忠治
1931年大阪府豊中市生まれ
伊藤建築設計事務所取締役相談役

1990年度〜1993年度・1995年度〜1996年度 JlA理事
1992年度〜1993年度 JlA東海支部支部長
1998年度〜1999年度 JlA愛知顧問
2000年度〜2001年度 J1A愛知監査
2002年度〜J1A愛知相談役
2003年 JlA名誉会員
 「今後、過去の人(?)に、JIAについて書いてもらうぺ一ジを設けることになったので頼むよ」とブリテン委員の福田一豊さんから言われて、それは面白そうだと二つ返事で引き受けたのはいいが、いざとなるとなかなかペンを取る気になれない。あまり難しく考えると書けないので、期待には応えられないかもしれないが、ここは私自身のこれまでの体験を振り返りながら、何らかの私のJIAへの思いが書ければと思う。
私のJlA活動の原点は理事選挙
 1990年度の本部役員選挙は、たしかJIA初の実際投票による選挙が、関東甲信越・東海・九州の三支部で同時に行なわれた。三支部ともそれぞれの事情から、定員を超えた立侯補があったためである。このときの選挙は、その後のJIA活動にとっての一つのエポックメイキングとなったことは確かで、もしまた機会があれば詳しく語りたいところであるけれど、ここでは割愛する。
 さて、私はこの東海支部の理事選挙に巻き込まれていくことになる。今を去る14年以上も前のことなので、実名をあげてもよいと思うが、ある日突然、私の事務所へ、広瀬一良さん、税田公道さん(当時東海支部長)、藤川壽男さんが、血相を変えて現れて、私に理事に立候補せ
よと迫ってきたのである。私は事務所の役員会に諮ることもできないまま、独断でその場で引き受けざるを得ないことになった。その後のことは、大方の会員の方々はご記憶にあると思うが、今にして思えば、大勢の会員の方々に随分ご迷惑をかけたことだと思う。当の私自身にとっては、これは大きな転機となったことは言うまでもない。
 いずれにしても私は、この時の選挙を通じて、本当に多くのことを学ばせていただいた。それこそ下手な文章ではとてもいい尽くせない程の人生経験をさせてもらった。そのことと、自ら立候補をして選挙までして理事になったこととは、その後のJIA活動への取り組みに、大いなる自覚を芽生えさせてくれた。
 それはそれはいろんなことがあったが、一つだけ記しておこう。ある長老は、初めて会ったとき、「君か! 選挙で出てきた理事は!!」。どう答えてよいものか? 何だか悪いことをして叱られている子どもみたいだったので、つい「スミマセン」と言ってしまったような憶えがある。この長老とも、後では大変仲良くなったが、選挙というものが会員にどのように受け取られたかを感じさせる一幕であったと思う。
JlA活動の基本は職能の確立
 私は理事選挙に出るまでは、JIA活動にはあまり積極的ではなかったように思う。広瀬一良さんや佐久間達二さん、五十嵐昇さんたちについて、「C&Dフォーラム」活動を主にやっていた。その経験があるからというので、JIA東海支部の機関誌を発行するときに手伝うように言われた。そこで古くからの盟友とも言うべき「建築ジャーナル」の杉浦登志彦氏と相談して、五項目からなる企画案を提出したのであるが、役員会で否決され、私は引かせてもらった。
 しかし、私は建築家あるいは建築家職能というものが、世の中でどのように評価されているのかということを、自ら認識することが、活動のスタートではないかとの考えから、建築家以外の有識者から話を聞くという企画を提案して、認められ、それを一年かけて実現させ、掲載してもらうことができた。たまたまそういうことがあった後、私は理事選挙に立候補することになって、次のような所信を書いた。「一昨年11月より一年間、東海支部機関誌『ARCHITECT』誌上において、12人の識者にインタビューして、建築家の職能について語ってもらいました。それらの話を通じて建築家の職能についての真の認識を得ることは非常に難しい問題であることを痛感しました。しかし、そのことのために私たちは努力しなければ、「JIA」の前進はあり得ないと考えます。以下省略」
 私の中では、この14年余の間も、JIA活動の基本は職能の確立でしかないと思っているが、果たしてJIAの最近の活動はどうであろうか。具体的に会員一人一人が検証してみる必要があるのではなかろうかと思う。           ('04・9・30)