和紙の楽しみ 1
和紙の歴史 仏教文化とともに飛躍
尾関 和成
( 渠頗\紙店 代表取締役)
私どもの会社柏彌紙店は、文政年間初代彌兵衛が創業し、「紙」「筆、硯」などを販売していました。現在は襖紙、襖縁、下地、引手などの「襖」の材料を主に扱っていますが、当時は多分襖としての「紙」の需要よりも商家が販売の記録をするための「大福帳」のための材料を扱っていたようです。
 江戸末期に創業し1907年(明治40)より現在の地にて営業をしていますので、和紙を探しに来られたお客様が、「美濃和紙はありますか?」、また「この紙は和紙ですか?」などお聞きになられます。「美濃和紙」といっても障子紙もあれば、書写のための紙もあるため、何に使われるのかをお聞きしないと、ご要望のものをお見せすることが出来ません。また「和紙」ですかとのお問い合せは、現在の紙が「和紙」なのか「洋紙」なのかが分かりにくくなっていると思われます。
 今般、私どもが以前より和紙について見聞したことをご紹介し、少しでも「紙」への興味を持っていただき、また建築の中での可能性のお役にたてていただければ幸いです。

尾関和成(おぜき・かずなり)/1950年名古屋市生まれ。1972年南山大学経営学部経営学科卒業、同年8月京都にある渇チ徳入社。1975年渠頗\紙店入社、専務取締役就任。1991年代表取締役に就任、現在に至る。趣味はゴルフ・スノーボード。
前漢時代に誕生した紙
 紙は後漢時代(105)に、蔡倫がはじめて製作したと言われています。これは『後漢書』蔡倫伝の「樹膚、麻頭(マトウ)および敝布(ヘイフ)、魚網を用いて紙と為す」という記事に基づいています。楮のほか葛・山藤などの樹皮繊維、大麻、苧麻(チョマ)などの草皮繊維、それにこれらの繊維を利用した布や魚網などを臼でつき砕いて水に溶かし、簀ですくいあげ静かに水を落として紙をつりました。「溜め漉き」と呼ばれる方法です。
 しかし近年になって中国の考古遺跡からの出土品により、蔡倫の紙に先だって紙があったことが明らかになっています。陜西省西安郊外の古墳から、黄味がかって薄くなめらかな紙が出土しました。これは大麻質の植物繊維を用いたものであり、蔡倫の紙より約200年さかのぼる時代に植物繊維の紙があったことを物語っています。
 大麻、苧麻(チョマ)をはじめとする植物繊維を古くから使っていた機織技術から、文字の使用に対応した製紙技術が前漢時代に誕生したと考えられています。そして蔡倫は皇帝直属の技監として技術者たちに製紙技術を研究させ、完成させた人物と言えます。この製紙技術は、シルクロードを経て12世紀にはヨーロッパへ、17世紀にはアメリカに伝わり、大量生産の方式が発展しました。日本では19世紀後半、明治時代初頭に技術が導入され近代製紙産業が始まりました。西洋の技術で作られた紙は洋紙と呼ばれています。
 一方、中国で生れた紙は朝鮮に伝わり日本に伝えられました。古代の製紙原料は麻、穀(カジ、楮)と斐(ヒ、雁皮)でありとくに麻が優勢でありました。わが国の製紙の始まりは、推古天皇18年(610)「高麗の王が、僧曇徴と法定をたてまつった。曇徴は五経を解し、絵の具や紙、墨を作ることも出来…」と『日本書紀』に記録があり、彼がわが国の紙の始祖であるとの説が一般的です。
 飛鳥・大和の時代には、詔書などの種類の作成・保管や国史の編集、宮中の仏事を行う所として図書寮(フミノツカサ)が置かれ、紙の製造が行われていました。秦氏などの帰化人の集落がある山城の国(京都)には、紙漉きの紙戸として50戸が指定されており、冬の農閑期には大和政府の図書寮へ出向き紙を漉いていました。公文書用紙や写経用紙を漉いていたようです。645年の大化の改新後に定められた『班田収授法』により戸籍が6年ごとに作成を義務づけられると、各地でかなりの量の紙が必要とされました。高価な輸入紙が使われるはずがなく、図書寮で養成された技術者が各地に派遣され、地方での製紙が必然的に発展したと考えられます。
 奈良時代は飛鳥・白鳳・天平の三期と区分されますが、いずれも仏教文化であり、寺院の建立、仏像、仏画の製作とともに写経の事業がきわめて盛んになりました。これらの写経用紙は大和の図書寮製紙所と山城の紙戸が主体となって生産していましたが、需要に応じるため、原料を送らせていた諸国から写経用紙を求めるようになりました。正倉院文書のなかで、紙名に国名があるのは、上野、美作、越前、出雲、播磨、美濃、筑紫、尾張、常陸、遠江、伊賀の11国です。
和紙の原料 左から雁皮、楮、三椏
紙の道
世界最古の印刷物「百万塔陀羅尼」
 天平8年(764)太政大臣恵美押勝の乱を平定した称徳天皇は、国家平和を祈り仏恩に感謝するために、6年余りを費やして宝亀元年(770)に百万塔を完成させました。この高さ19.5p、径10.5pある木製の小塔は、大和の東大寺、西大寺、大安寺、薬師寺、元興寺、興福寺、法隆寺の南都七大寺の他、摂津の四天王寺、近江の崇福寺、大和の弘福寺を加えた十大寺に、それぞれ十万基を分納しました。小塔内には幅5.4p、長さ25〜57pの紙に印刷した陀羅尼経が納めてあります。
 陀羅尼には二種の版があり、一つの版木で十二万五千枚を印刷したことになります。筆写ではなく印刷によって作られたことは画期的事業であり、この天平期の陀羅尼印刷の事業は後の製紙業の大きな推進力となっています。また、この紙は千二百余年を経ても現存しており、和紙のいのちの驚くべき長さを百万塔陀羅尼ははっきりと語っています。
百万塔陀羅尼経 百万塔陀羅尼
「溜め漉き」と「流し漉き」
 中国から朝鮮を経て日本に伝わった抄紙法は「溜め漉き」と言われています。「溜め漉き」は、剥皮、煮熟、塵取り、叩解等の工程を終えると、パルプ状の紙料を水とともに漉槽に入れ十分かきまぜます。その後竹や茅でつくった簀をはめた漉桁で、槽のなかの紙料をすくい、平らに持ち上げて前後左右にゆり動かし、繊維を縦横に絡ませます。簀を通して水分を漏出させると、湿紙のついたまま簀を斜めにし、残りの水分を落として紙床(シト)に伏せ、次の湿紙との密着を避けるために同じ大きさの紗を重ねます。適当な高さになると押板を当てて水を切り、一晩放置し翌朝紗から湿紙をはがして板にはり天日乾燥します。
 「流し漉き」は、漉槽の中に紙料と水とネリ剤を加え、簀桁で何回も紙料を組み込み、漉桁を前後に揺り動かして繊維を平均にからみあわせます。目的の厚さに達すると最後に捨水と呼ばれる手法ですが、塵ととともに勢いよく水を捨て不純物を洗い流します。この一連の行程が「流し漉き」特有の手法です。
 ネリ剤を加え、捨水等の操作をすることに加え、漉きあげた湿紙は紗などの布を重ねる必要がなく、そのまま重ねて水分を絞れば、一枚一枚をはいで乾燥することができます。
 ネリ剤にはトロロアオイ(黄蜀葵)、ノリウツギがよく使われます。ネリ剤は繊維と繊維を接着するためではなく、一本一本の繊維をネリのぬるぬるで包むため、繊維が互いに絡み合うことなく水中で分散し、水に適当な粘り気が生じます。すると繊維は水底に沈殿することなく長時間水中に浮上し、漉槽のなかで繊維が均一に分散させることができます。