東海地方の寺院建築 4
阿弥陀堂の建築
金蓮寺弥陀堂と妙源寺柳堂
杉 野  丞
(愛知工業大学建築学科教授)
浄土信仰と阿弥陀堂
平安時代には、浄土信仰の広まりの中で人々は極楽浄土に生きることを願った。釈迦の入滅後の世の中は正法・像法・末法の3つの時代からなるとされ、正法の時代には仏教が興隆し、像法の時代には衰退し、末法の時代には滅亡して天変地異が起きると信じられ、永承7年(1052)より末法に入ると考えられた。そのため、貴族たちは極楽往生を約束するとされた常行三昧を信仰し、常行堂を建てるようになった。そこでは、念仏を唱えて一巡する行道が行われたため、方三間・方五間といった正方形の平面が用いられ、中央に四天柱を立てて須弥壇上に阿弥陀如来を祀ったため、常行堂は阿弥陀堂としていつしか広まった。
 関白の藤原頼通は、父道長より譲り受けた宇治殿の地をいくばくかの余世を極楽浄土に近づけようと平等院(京都府)と改め、天喜元年(1053)に阿弥陀堂を完成させた。これが、現在の平等院鳳凰堂であり、中堂・翼廊・尾廊からなるその姿は極楽浄土の宝楼閣を彷彿とさせるものである。奥州の覇者となった藤原清衡も、都の栄華を平泉に移すことを夢みて、大治元年(1126)に中尊寺を建立した。ここに残る阿弥陀堂は、方三間の中央に四天柱をもつ有心堂形式で、内外とも金箔を押し、内部に螺鈿・蒔絵を施し、清衡・基衡・秀衡三代の遺骸を祀っており、藤原三代の栄華を象徴する中尊寺金色堂(岩手県)として知られる。この他、全国各地に阿弥陀堂が残され、願成寺阿弥陀堂(福島県)、高蔵寺阿弥陀堂(宮城県)、金剛峯寺不動堂(和歌山県)、鶴林寺太子堂(兵庫県)、富貴寺大堂(大分県)が知られる。東海地方には金蓮寺弥陀堂(愛知県)が残され、この系譜を引く妙源寺柳堂(愛知県)が残されている。
金蓮寺弥陀堂 吉良町餐庭七度ヶ入
 金蓮寺は、青竜山と号し、本尊阿弥陀如来を祀っている。寺地のある饗庭(あいば)は三河国幡豆郡の吉良荘にあり、平安時代末期には藤原氏の女院領であったが、鎌倉初期に九条家領となり、この頃より実質的支配は武家方に移ったとみられる。創立は、寺伝によると文治2年(1186)に源頼朝と三河国守護安達藤九郎盛長によって建てられた三河七御堂の一つと伝える。現在の弥陀堂は平安末期に流行した阿弥陀堂の系列に属するが、様式手法からみると平安時代まで遡らず、鎌倉時代中頃の建立と考えられている。昭和29年に国宝に指定され、解体修理で旧状に復された。
 弥陀堂は、方三間を主体とし、正面3間に通し庇と向かって右側面後方2間に庇を出している。柱は、大面取角柱で、舟肘木をのせ、軒は地垂木を繁垂木としながら、飛縁垂木は疎垂木・木舞打とし、正面の打越垂木を繁垂木とする。正方形平面に寄棟造の屋根をのせたために、隅木は振れ隅となり、庇は縋破風でさばいている。正面3間の通し庇は開放で、その奥に蔀戸を吊り、側面前端間と背面中央間に板扉を開いている。この他の柱間は板壁であるが、右庇の正面には横舞良戸を入れている。堂内は一つの空間とされ、右庇との境に舞良戸を入れ、中央後方では側柱筋よりやや後退させて来迎柱を立て、来迎壁を設け、前方に地覆・束・羽目板・框からなる箱仏壇を出し、羽目板に格挟間を入れ、和様の擬宝珠高欄を巡らしている。天井は折上小組格天井とし、来迎柱の前では二重折上小組格天井としている。柱間寸法は、桁行・梁間ともに全長19.17尺の43枝とし(垂木の一間隔を1枝という)、中間では6.83尺の15枝、脇間では6.17尺の14枝としており、垂木間隔に1分5厘の差が認められ、垂木割りの技法は用いられなかったようである。全国の平安・鎌倉時代の三間堂の遺構を見ると、金蓮寺弥陀堂のように舟肘木を用いた仏堂ではいまだ一枝寸法が統一されていないものが多かったようである。
 この仏堂は方三間に前庇と側面小室をつけており、金剛峯寺不動堂と通ずるものがあり、平安時代の余風をもつ邸宅風の仏堂と見ることができる。しかし、内部に四天柱を用いず、来迎柱を側柱より後退させ、床下に足固め貫を使用していることからして、鎌倉時代の中頃の建物と考えられる。また、本尊阿弥陀如来座像も吉良庄が鎌倉時代前期まで公家領であったため、公家文化の影響をとどめるといわれる。
金蓮寺弥陀堂 外観 蔀戸を開放 堂内には本尊阿弥陀如来を祀ってある
平面図 正面図 側面図
妙源寺柳堂 岡崎市大和町沓市場
 妙源寺は、三河国の浄土真宗のもっとも古い道場で、開基は桑子城主安藤薩摩守信平である。寺域は、桑子城跡にあり、西に矢作川の支流が流れ、鎌倉街道が隣接して通る。文暦2年(1235)親鸞上人が関東から帰洛する際、信平は城内の太子堂に請じて説法を乞い、その弘願他力の法を証得して帰依し、正嘉2年(1258)城域を割いて明眼寺を建立し、念信房蓮慶と称して開祖となった。その後、寺内に12坊と30余りの末寺をもつほどの隆盛を見たが、延文2年(1357)に北畠氏の兵火にかかった。以後は、安祥城主松平長親、松平清康、徳川家康などの庇護を受けて寺運を保った。
 太子堂は別名柳堂と呼ばれる。方三間、寄棟造り、桧皮葺、一間向拝付、四方に擬宝珠高欄付の濡縁を巡らしている。主柱は丸柱とし、亀腹上に立て、縁長押、内法長押、頭貫を巡らし、組物は平三斗、笹繰り付、中備は間斗束とし、軒は二軒繁垂木としている。向拝は、面取角柱を礎盤上に立て、組物は連三斗・笹繰り付とし、中備に本蟇股をおき、内側に手挟みを加え、柱上に頭貫を通して両端に木鼻を出し、木鼻上に巻斗・皿斗をおいて組物を支えている。正面の中央柱間には双折桟唐戸をつり、この両脇間ならびに両側面の前2間には蔀戸をつり、背面中央間に双折桟唐戸をつり、その他を板壁としている。堂内は一つの空間とされ、中央後方では側柱筋より奥に来迎柱を立て、柱上に三ツ斗・実肘木付をおいて棹縁天井を支えている。来迎柱間では飛貫・頭貫を通して来迎壁を設け、前方に禅宗様須弥壇を出し、宮殿を安置して聖徳太子像を祀っている。柱間寸法は、桁行・梁間ともに全長24.15尺の60枝とし、柱間3間を等間隔にとり、いずれも8.05尺の20枝としており、1枝を0.4025尺としていることが分かる。これは1丈(=10尺)に25枝を配し、各柱間に1枝を4寸として20枝を配した垂木割としたものとみられ、明快な計画寸法であることが分かる。
 この仏堂は、組物を平三斗とし、柱間に蔀戸をつり、天井を低く張るなど邸宅風な意匠を取り入れており、金蓮寺弥陀堂と同様に阿弥陀堂の系譜を引いたものとみてよい。浄土真宗の初期の寺院では門徒の集まる道場が建てられたが、御堂としてはささやかな仏堂が建てられた。そこでは、阿弥陀如来座像や聖徳太子立像を祀るために、阿弥陀堂形式の仏堂が造立された。妙源寺柳堂はそうした数少ない遺構の一つである。
 このように、平安時代の阿弥陀堂の建築は、鎌倉時代には新仏教の中で方三間の有心堂形式として継承され、室町時代には諸仏の祠堂として受け継がれ、穏やかな邸宅風な仏堂は古代の人々の西方極楽浄土へ思いを伝えてくれるのである。
妙源寺柳堂 外観 正面の中央柱間には双折桟唐戸をつる 宮殿に聖徳太子像を祀っている
平面図 正面図 側面図