東海地方の寺院建築 2
禅宗の建築
杉 野  丞
(愛知工業大学建築学科教授)
はじめに
 鎌倉時代、中国の宋朝より臨済宗と曹洞宗が栄西と道元によってそれぞれ招来された。臨済宗は鎌倉・室町幕府の庇護を受けて五山・十刹・諸山と呼ばれる官寺を創建し、鎌倉の建長寺・円覚寺、京都の建仁寺・東福寺・南禅寺などの五山では山門・仏殿・法堂・僧堂・方丈・庫院・東司・浴司からなる中国式の禅宗伽藍を築いて繁栄を誇った。
 しかし、室町時代末の応仁・文明の乱(1467〜77)によって京都の五山禅院が焼き尽くされると、伽藍を復興することは困難であった。この間、幕府の保護を受けなかった大徳寺と妙心寺は着々と布教を行い、中でも妙心寺派は戦国大名の帰依を受けて末寺を開き、近世に入ると臨済宗の最大勢力となった。これに対し、曹洞宗では宗祖道元が朝廷や権カ者に近づくことなくひたすら坐禅すべきことを主張して越前に永平寺を開くと、その門下が北陸から東海・関東・甲信越・東北・中国・九州地方にかけて勢力を伸ばした。また、江戸時代には黄檗宗が隠元によってもたらされ、京都宇治に万福寺を開き、日本化した臨済禅・曹洞禅に大きな影響を及ぼした。
 一方、禅の思想は「不立文字・教外別伝・直指人心・見性成仏」の達磨の四聖句に収斂されるという。その大意は「経典や言葉に頼ることなく(不立文字)、説かれた言葉の外に真理が存在し(教外別伝)、仏性をもつ本来の自分に気付くこと、それが悟りである(直指人心・見性成仏)」とするものであった。
 禅宗三派は、それぞれに独自の禅風をもち、臨済宗では公案禅を説き、公案を用いて迷いから悟りへの転換を期し、曹洞宗では黙照禅を説き、達磨以前の仏本来のあるがままの坐禅に取り組んできた。黄檗宗では念仏禅を説き、古来の峻烈な禅の精神を失っていたが、規矩から経典の読誦まで中国風の儀礼が行われたため、日本の禅僧は競って隠元のもとに参じた。このような三派の禅風の違いは、禅の建築にそのまま反映されている。そこで、東海地方に残されている禅宗の建築を訪ねてみよう。
瑞泉寺庫裏・土間上部
瑞泉寺(名古屋市)禅堂・内部禅林
妙興寺伽藍「尾張名所図絵」
臨済宗寺院 美濃に多く見られる塔頭の寺院構成
 尾張一宮には、「尾張に過ぎたる妙興寺」といわれた東海地方の臨済宗屈指の大伽藍がある。貞和4年(1348)に滅宗宗興によって創立され、貞治3年(1364)には足利義詮によって諸山に列せられ、同4年には山門・仏殿・法堂・僧堂・方丈・東司・観音殿などからなる大伽藍を造営した。近世に五山派から妙心寺派に転じ、幕末に火災に遭ったが、明治年間に主要堂宇を再建し、今なお3万6千坪余の境内には総門・勅使門(重文)・山門・仏殿・僧堂・方丈・庫院・東司・浴司・鐘楼(県文)を残し、専門道場として多くの雲水が修行に励んでいる。
 また、美濃地方は妙心寺派の末寺が全国的にも集中していることで知られる。これは、京都・妙心寺の開山・関山慧玄が美濃の正眼寺(美濃加茂)より出て、関山の弟子義天玄承が愚渓寺(御嵩)、雲谷玄承が汾陽寺(武芸川)を開き、義天が妙心寺八世、その弟雪江宗深が同寺九世となり、その門下に景川宗隆・悟渓宗頓・特芳禅傑・東陽英朝の四哲が輩出され、本山周辺に龍泉・東海・霊雲・聖沢の4派本庵が開かれ、門派の基礎が築かれた。この四派との結びつきも強く、東海派の悟渓は美濃の拠点となった瑞竜寺(犬山)を開き、その弟子・仁済宗如は瑞林寺(美濃加茂)、玉浦宗眠は大智寺(岐阜)、大圭紹琢は清泰寺(美濃)を開いた。さらに、聖沢派の東陽英朝は美濃の守護土岐氏の出身で大仙院(八百津)に入山し、東光寺(伊自良)・正伝寺(八百津)を開いている。このように、美濃地方は関山慧玄より、本山妙心寺に昇住あるいは四派の法を嗣ぐ高僧によって創立された寺院が多く、これらが中世末に多くの末寺を開いたのである。これらの中で中世に遡る遺構はないが、近世にはいずれも山門・玄関・客殿・庫裏からなる寺院構成をもっていた。一方、本山妙心寺では、歴代の高僧が入寂すると塔頭(たっちゅう)と呼ばれる子院を開いたために多くの塔頭が残されている。本来、塔頭とは高僧の墓所であり、卵塔(墓石)を祀ったのがはじまりとされ、弟子たちが墓守として住むようになると客殿や庫裏が建てられるようになった。その後、客殿では頂相(ちんぞう)と呼ばれる高僧を描いた画像を祀るようになり、頂相は画像から木像へと変わった。
 地方寺院ではこうした塔頭の寺院構成を用いたため、山門・玄関・本堂・庫裏を整えるものが多く、客殿に本尊仏を安置して本堂とし、本堂後方に付属した開山堂に開山の頂相を祀るようになった。そのため、臨済宗本堂は他宗のように境内の中心軸線上に配することは少なく、本堂の前に枯山水の庭を造り、その脇の玄関から本堂に上るものが一般的となり、美濃地方には、京都の塔頭寺院に見られる寺院構成の特徴を備えた寺院が数多く残されている。
清泰寺本堂(美濃市) 崇福寺本堂・前庭(岐阜市)
清泰寺伽藍(美濃市) 崇福寺本堂・仏間前面(岐阜市) 崇福寺開山堂・頂相(岐阜市)
乾坤院伽藍「尾張名所図絵」 乾坤院伽藍(東浦町)
曹洞宗寺院 庫裏と禅堂をつなぐ露地の寺院構成
 曹洞宗では、本山永平寺はもちろん北陸には能登の総持寺、越中の瑞竜寺、加賀の大乗寺など七堂伽藍を整える寺院が多く、これは宗祖道元以来、只管打坐を唱えてきた同宗であったから坐禅修行を行うための伽藍が必要であったのである。この伽藍観は各地の中核寺院にまでおよび、仏殿と法堂を一つに集約させて本堂とし、総門・山門・本堂・庫裏・禅堂・衆寮・回廊・東司・浴司を備えた寺院が数多く造営された。
 東海地方では、尾張の乾伸院(東浦)・龍渓院(岡崎)・瑞泉寺(名古屋)、伊勢の広泰寺(玉城)・浄眼寺(松阪)、美濃の龍泰寺(関)・妙応寺(関が原)などにみられ、これらは南北中軸線上に総門・山門・本堂を配し、本堂の東前方に庫裏、西前方に禅堂・衆寮を相対して建て、本堂前の中庭を回廊で囲み諸堂を結んでいる。曹洞宗本堂は2列3室の6間取りの方丈形式を祖形としたが、2列4室の8間取りの前面に露地と呼ばれる土間を通すものが本格的な形式とされ、露地は庫裡と禅堂をつなぐ回廊の役割を果たした。
 また、曹洞宗の住持は、最終最高の義務として必ず1回以上の結制(けっせい)を修行することが求められ、自ら法幢をたて、首座や役僧を統括し、結制安居中に授戒会・血脈会などを行なわなければならなかった。結制は九旬安居(くじゅんあんご)の制とも云われ、夏安居と冬安居の際には90日間禁足して坐禅修行を行い、江戸時代には結制を執行する回数をもって寺院の格式を決めており、毎年夏冬2回行う常恒会地、夏冬いずれか1回の片法幢会地、3・4年に1回の随意会地、住持の在任中に1回を執行する寺院を法地と定め、常恒・片法幢・随意会地といった格式の寺院では結制を執行するために曹洞宗伽藍を整える必要があったのである。

永住寺伽藍(新城市)
龍渓院本堂・内部露地(岡崎市) 龍渓院本堂・内陣正面(岡崎市) 宝林寺本堂・内部土間(引佐町) 宝林寺報恩堂(引佐町)
黄檗宗寺院 中国福建省の明の時代の寺院構成
 黄檗宗では、中国の明朝風の仏殿形式の建物を本堂とした。遠江の宝林寺(細江)は、寛文4年(1664)旗本近藤貞用の菩提寺として隠元と共に来日した独潭に宝林寺報恩堂(引佐町)よって創立され、現在は仏殿(重文)・方丈(重文)・報恩堂などが残されている。仏殿は、単層五間仏殿、入母屋造、桧皮葺とし、屋根を和風としたものの、前一間通りを吹き放し、内部を一つの空間とし、瓦四半敷、角型礎石、卍崩し欄間、内開き扉、組物など、中国福建省の明代の建築様式を伝えていることが分かる。方丈は本山万福寺と同様に六間取りの方丈形式を用い、報恩堂は単層三間仏殿で土間式の一つの空間として中央に尊像を祀っている。
 禅宗では、釈迦の教えは文字に表せず、体験上のことも文字に表せないとされる。それゆえ、禅の造形においても見えないものを見せ、現わせないものを現わすところにその意義を見出すことができる。そして、臨済宗の看話禅、曹洞宗の黙照禅、黄檗宗の念仏禅は各々の禅風を示したものであり、それらの建築を理解するためにはその精神を理解することが求められよう。