建築教育への期待J(最終回)
日本の建築家教育に欠けているもの
鬼頭 梓
(鬼頭梓建築設計事務所)
はじめに
 建築教育の目的は建築とは何かを学ぶことにありますし、建築家教育の目的はそれとともに建築家とは何かについて深く学ぶところにあります。ですが建築とはとか建築家とはという問いには、永遠の問いのようなところがありますから、むしろその目的は、その問いを一生の問いとして生涯問い続けていく、そういった心を育てるところにある、と言ったほうがいいのかもしれません。そんな教育が今多少でも行なわれているのかどうか知りませんが、現在働いている建築家たちにしても、その多くは、恐らく眼前の仕事に追われて、自らそんな疑問を繰り返し問い直していくだけの余裕は持ち得ないでいるのではないでしょうか。
 建築家をとりまく今の状況は極めて厳しいものがあります。厳しいばかりではなく、憂慮すべき事態を迎えています。それは例えば依然として横行する設計料の入札であり、それに絡む談合やダンピング、あるいは不透明な建築家の選定、仕事の減少に追い打ちをかけるような設計料の暴落など、真面目な建築家ほど窮地に追いやられています。かつてない不況が当面の原因でしょうが、根底には社会の建築そのものに対する認識の不足や誤った認識がありはしないか、同時に建築家の側にも同様の問題があるのではないか、そのような原点に立って改めて建築と建築家と、そしてその教育とについて考えてみたいと思います。
見失われた建築の意味
 今日本の社会には、建築とは何かということについて深く考え、本質的な理解を得るのには大変ふさわしくない状況が重なっています。一つは街に歴史がないこと、わずか3〜40年の寿命の建物が次々と建てられ、次々と壊されるめまぐるしい変化の繰り返しで、目に見える形での都市としての成熟の歴史を持つことなく今日に至ってしまったことです。それに比して、海外で多く見られるような100年か数100年か、時には1000年を超える時間をかけて育てられ創られてきた街にあっては、その時間を耐えて来た建物群と、それらに囲まれながらそれに伍してその場所に新しい建物を創ろうとする、いわば歴史の重い圧力に抗しながら、共に街を創るという強い意欲にみちた創造とがぶつかりあって、連綿とその歴史を築いてきました。そこでは建築は永遠を目指し、未来を生きていくものとして歴史を創ってきたのです。建築は未来の都市をつくり、未来の人々の生活を支えていかなければなりません。人間の寿命よりずっと永く生き続け、何代にもわたって人々の生活を支えていく、そのことの持つ深く大きな意味を、私たちはほとんど実感することなく創り続けてきました。建築と街についての深い洞察を欠いたまま今日の状況を迎えたのです。それに拍車をかけたのがバブルでした。
 かつて建築は人々が生きるための切実な営みであり、その持つ意味は生きることの意味としっかり重なっていました。時代とともにそれが段々とずれてきて、政治的な意味や経済的な意味を持ちはじめると、やがて日本中に箱物という用途の希薄な、時には意味不明の建物さえ次々とつくられ、やがてバブルで頂点に達しました。もはや建築は人々の必要にこたえるものではなく、人々の欲望を刺激し虚構の必要をつくりあげ、増殖し肥大化した欲望の対象と化して、かつてない繁栄を謳歌しながら、その中で建築は自らの意味を見失っていきました。その後遺症は今も消えることがありません。
 建築が人々の切実な必要にこたえてつくられ、未来の街をつくり、未来の生活を支えていく、そんな素朴な意味合いを、社会も建築家も建築の原点としてはっきりと認識し直すべきでありましょう。今日のように建物がしばしば極めて安易につくられ、あるいは建築家の恣意にまかせてつくられて、多くの人が欠陥住宅に苦しみ、建築家の独りよがりに非難の声が上がりながら、しかし社会全体としてはこれを容認しているかのように見える無関心な風潮の中では、見失われようとしている建築の意味の再生こそ、今日建築の最大の課題ではないでしょうか。
人間のための建築
 本来建築は人間のためにあります。人間が生き、生き続け、やがて死を迎えるまでの一生を生き生きと生きていけるように、それを支える場所としてあります。人が生きるということはどういうことなのか、一人ひとりのこの人にとって、この家族にとって、あるいはこの集団にとって、生きるとはどういうことなのか、建築はそこから始まります。一人の人も家族も集団も、それぞれにそれぞれの生を求めて、生きるとはどういうことか、よりよく生きるとはどういうことなのか、どうすべきかを探し求めて生きています。建築はどこまで深くそれにこたえていくことができるのか、建築家の手にそれがゆだねられています。決定権を握っていると言ってもいいでしょう。これこそあなたの生にとって、あなた方の、あるいはあなた方の集団の生にとって、もっともふさわしい場所なのです、と言ってその場所のあり様としつらえとを決めてしまう、それが建築家の仕事です。それ故建築家には人間への深い理解と愛情と敬意の上にたって仕事をすることが求められるのです。建築家という職業がプロフェッションとされる一番大きな理由かも知れません。考えてみると、聖職者にしろ医者にしろあるいは弁護士にしろ、古典的なプロフェッションはすべて人々の生に深くかかわる職業であることに気が付きます。建築家にとってもっとも大切な自覚でありましょう。AIA会長のトンプソン・E・ペニー氏が、昨秋のJIA滋賀大会の挨拶の中で、“デザインの重要な役割は単に新しさを追求することではなく、人間のニーズに対する創造的なかかわりであって、建築家は人々に深く気を配らなければならない”と言われた言葉には、アメリカにおける健全な建築家プロフェッションへの指向が感じられて深い同感を覚えました。
 聖路加国際病院の日野原重明先生は、学士会でのご講演の中でこういう意味のことを言われています。(『学士会会報』No.824“日本の臨床医学の教育はどのレベルにあるか”)医師の心の中には、病んでいる臓器への悪魔的な興味と、病んでいる患者をいとおしむ気持ちが同居している、臨床医にとっての対象は病気ではなく病気を持って苦しんでいる人間でなければならない、日本で医師を志望する動機の大半は収入がよく安定した職業だからという点で、病む人のために使命感をもって努めたいという学生は稀、米国では医学部に入るためには学科試験のほかに、時には一日も二日もかけた入念な面接があり、試験では分からない例えば命をいとおしむ素質が備わっているかどうかが調べられる、などといったお話をそのまま建築に引き写すことはできないとしても、建築にかかわる人々の持つ興味のありようと対比してみると、大きな示唆に富んでいるように思います。今日建築を志す学生の動機の大半は、恐らく造型への興味であって、人間への興味から建築を目指すという人はそうはいないのではないでしょうか。そうであればなおさら、建築を学ぶ中で人間への思いを深めていくことが真剣に求められなくてはならないでしょう。
人文学的素養を
 日本の建築教育はホーリスティックな教育だと建築学会では言っていて、これを諸外国にまさるすぐれた長所だとしています。諸外国でアーキテクトとエンジニアとが別の体系の中で教育されるのに比して、日本では両者が例えば工学部建築学科という同一の教育課程の中で学ぶことによって、ともに広い知識を身につけることができ、両者の間に深い相互理解と連帯感が育まれる、といった意味においてであろうと思います。その点についてだけは私も同感で、卒業して様々な建築関連分野で働く人々の間に共通の理解があることが、日本の建築生産の質を高めている一つの大きな要因ではないかとさえ思っています。
 しかしこれを以てホーリスティックというのは大きな誤りだと思います。日本ではアーキテクトの教育はほとんど技術教育に限定されてしまっていますから、工学の分野の中でのホーリスティックな教育と言うのであればよいのかも知れませんが、実はアーキテクトにとって欠くことのできない人文学的な素養を身につけるための教育は、ほとんどなされていないのが現状です。それでも以前は大学教育4年のうち前半2年が教養課程、後半が専門課程とされていましたが、専門課程の教育が間に合わないという理由で教養課程はどんどん削られてきていると言います。建築家を志す人間にとって、技術への理解や造型力を深めることが重要であることはもちろんですが、それと同時に、あるいはそれ以上に、人間について深く学ぶことが欠かせない要件なのです。人間について、人間社会について、人間の歴史と未来への展望について学ぶところから、はじめて建築や都市についての哲学が生まれ、その哲学に裏打ちされたデザインが生まれるのだと思います。
 今、ホーリスティックの名のもとにデザイン教育がどんどん狭められている中で、教育を担当する建築家たちが苦心惨憺している状況には深く敬意を表しますが、ただでさえデザイン教育の時間不足に悩まされている中で、デザインの本質にかかわる人間への深い思いを養い、人文学的素養を身につけるなどと言うことは、極めて困難なことに違いありません。日本の建築教育の体系のもつ重大な欠陥だと言うべきでしょう。一方でUIA基準への対応から、大学院2年を加算しようとする動きが急ですが、そうならばその6年の教育課程の中に、今こそ技術や造型以前の人文学的な分野の教科をも含めるべきではないでしょうか。あるいはさらに広く、社会科学の分野についての基礎的な理解も必要でありましょう。
 今、資格制度も変革の兆しを見せています。社会における建築の概念も大きく変わるべき時を迎えています。この大きな流れの中で、教育制度の改革においても、本当のアーキテクト教育はどうあるべきなのか、衆知を集めて取り組むべきでありましょう。そこに21世紀の日本の建築のありようが大きくかかっていると思っています。