東海地方の寺院建築 1
宗派から読み取る建築の多様性
杉 野  丞
(愛知工業大学建築学科教授)
はじめに
J・コンドルの教えを受けた辰野金吾が明治13年(1880)英国・ロンドンに留学した際、師であるW・バージェスより「日本は古い文化を有する国であり、そもそも日本の建築は如何なる性質のものか」と問われると、辰野は「一向に知りませぬ」と繰り返した。バージェスは「君がヨーロッパの建築を学ぶもさることながら、その前に自国の建築を知らねばならぬ」と諭された話はよく知られている。以来、日本建築の研究は進み、今では多くの建物が世界遺産に登録されるまでになったが、再び自国の建築は如何なるものかと問われると、この自戒の言葉を思い起こさざるを得ない。
 それは、一つに身近な自国の建築に対する理解が進んでいないこと、また建築史家が研究成果や歴史的遺産についての情報を十分に発信していないことに起因しているように思われる。このたび、本誌に執筆の機会を得て、ここ数年調査を重ねてきた東海地方の寺院建築について紹介することで、自国の建築の理解の一助となればと思います。
中世・近世の寺々 中世の寺院建築はいずれも重文
 古代の寺々は、奈良・京都において歴史の舞台に登場した寺院についてよく知られる。奈良時代には朝廷により国家鎮護を願って本格的な伽藍が創建され、平安時代には貴族により極楽浄土を願って浄土教の建築が建てられ、密教(天台・真言)が伝わると山岳寺院が建てられた。
しかし、東海地方ではこうした古代の建築は失われ、国分寺、国分尼寺などの遺跡が残されるのみである。
 中世の寺々は、鎌倉・室町幕府により禅宗(臨済・曹洞)が保護され、京都と鎌倉には五山と呼ばれる大禅院が建立され、地方でも武家により浄土宗・浄土真宗・日蓮宗などの新興宗派が保護されると、全国に数多くの寺院が建立されるようになった。東海地方においても多くの寺院が建てられたが、その大半は戦乱によって失われ、幸い50件ほど(東海4県)の中世の寺院建築が残され、いずれも重要文化財に指定されている。
 近世の寺々は、江戸幕府がキリシタン禁制、寺請制度、本末制度を施行したため、大きな影響を受けることになった。キリシタン禁制は人々を仏教へ帰依させ、寺請制度は人々を寺に檀家として帰属させ、本末制度は本山から末寺までを序列化してピラミッド型の教団を成立させた。その結果、教団は統一的な「本堂」を生み出した。しかも、各地の大名が寺を保護し、庶民の経済力も向上したため、全国に膨大な数の建築が建てられるようになった。ところで、今日なおこの檀家制度は維持され、檀家が先祖の供養を寺に託すのに対し、建物の修復などの際には応分の負担を負うこととなり、現代の生活とも深く関わっている。
 さて、東海の寺々の建築は近世のものが大半であり、それらを一括して述べることは難しいので、その中枢である本堂について宗派性・地域性・時代性の3つのキーワードによって紹介してみよう。

天台宗 滝山寺本堂・室町前期
宗派性  宗派に応じて明確な建築的な相違
 鎌倉新仏教の各宗派では、教団の法式行事を執行する施設として本堂を建てたため、固有の本堂形式を生み出した。そこで、東海の寺々の各宗派の現存最古の本堂を眺めてみよう。
 天台宗の滝山寺本堂(岡崎市・重文)は五間堂で総丸柱に組物をおき、内部を外陣と内陣に2分し、内陣両側に脇陣を置いた本格的な密教本堂の形式をみせている。禅宗は臨済・曹洞・黄檗の3派に分かれ、臨済宗の臨済寺本堂(静岡市・重文)では正側3方に広縁を通し、2列3室の整形六間取を構えており、京都の禅寺の塔頭客殿に見られる方丈形式を採用しており、曹洞宗の龍渓院本堂(岡崎市)は方丈形式をとりながら、堂内前面に露地と呼ばれる土間を通したところに特徴があり、黄檗宗の宝林寺仏殿(細江町・重文)は単層の仏殿形式を用い、ここでは同宗が江戸時代に中国から伝えられたため、明朝風の意匠をよく現している。浄土宗の曼荼羅寺正堂(江南市・重文)は広縁・外陣・脇の間・内陣からなり、全体を客殿風の建物としながら、内陣を仏堂風に扱ったところに特徴がある。浄土真宗の照蓮寺本堂(荘川村・重文)は広縁・外陣・内陣・余間からなり、道場から真宗本堂へと移行した時期の建物である。法華宗の本興寺本堂(湖西市・重文)は、密教本堂の五間堂に類するが、外陣の奥行が浅く、内陣の奥行を深くとるところに違いがある。このように、各宗の本堂は一歩足を踏み入れると、ただちに宗派が判別できるほど明確な建築的な特徴を備えている。このことは、キリスト教の教会においても、カトリックとプロテスタントでは大きく異なり、カトリック教会が伝統的なバシリカ形式の平面に聖像・聖画などを飾るのに対し、プロテスタント教会では長方形の奥深い平面としつつも偶像は飾らず、清楚な空間を造り出している相違に近いのかもしれない。

東海の寺々の宗派の地域性
東海の寺々の本堂の宗派性

天台宗 滝山寺本堂・室町前期

臨済宗 臨済寺本堂・江戸前期

浄土真宗 照蓮寺本堂・永正元・1504

浄土宗 曼陀羅寺正堂・寛永9・1632

法華宗 本興寺本堂・天文21・1552

黄檗宗 寳林寺本堂・寛文7・1667
地域性  宗派の分布と代表的な寺院
東海の寺々には宗派の分布に特徴が認められるので、その代表的な寺院と合わせて地域性について眺めてみよう。
 伊豆地方は、鎌倉の臨済宗五山派の影響の大きかった地域であるが、中世末にその多くが曹洞宗に転宗し、保善院本堂(熱海市)などが残される。駿河地方は、京都の妙心寺派が勢力を伸ばし、清見寺本堂(静岡市)、臨済寺本堂(静岡市・重文)等を残し、東部には日蓮宗の総本山大石寺(富士市)があり、同御影堂(重文)等が残されている。遠江地方には真言宗の応賀寺薬師寺(新居町)・油山寺(袋井市)等が残され、いずれも中世の密教本堂の伝統を継承している。また、曹洞宗の有力地盤であり、釣月院本堂(相良町)等を残している。
 三河地方は一向一揆で知られ、真宗三河三ケ寺の本証寺本堂(安城市)等を残している。また、大樹寺(岡崎市)は徳川家康の菩提寺として知られ、同本堂は浄土宗本堂を代表する建物である。尾張地方は、尾張徳川家の菩提寺である建中寺(名古屋市)があり、同本堂は県下最大の浄土宗本堂である。また、曹洞宗の有力地盤であり、僧録寺院の乾坤院(東浦町)には曹洞宗伽藍が残されている。
 美濃地方は、全国的にも妙心寺派末寺が集中していることで知られ、清泰寺本堂は(美濃市)大型方丈の一つである。
 飛騨地方は、越前・越中から真宗が伝播し、照蓮寺本堂は(荘川村・重文)真宗本堂の成立期の遺構である。
 伊勢地方には真宗高田派・総本山専修寺(津市)があり、東本願寺派、西本願寺派と比べると少数派であるが、浄光寺本堂(河芸町)のように真宗本堂の平面に浄土宗の意匠を加えた高田派独自の形式を生み出している。伊勢の金剛証寺(伊勢市)は、伊勢神宮の鬼門に建てられた真言宗寺院であり、その伝統を保って密教本堂の形式を採用し、志摩地方には真言宗の庫蔵寺本堂(鳥羽市・重文)が残され、伊勢・志摩地方には数多くの密教本堂が残されている。
時代性  社会の動向が建築に反映
 近世の寺々は、鎖国政策がとられたために外国からの刺激もなく建築的に変化の少ない時代であった。江戸初期に中国より黄檗宗が伝えられたが、中世の大仏様や禅宗様のように木造の構造的な発展に影響を及ぼすことなく、建築への関心はもっぱら組物・虹梁などの意匠に向かった。江戸初期(元和〜貞享・1615〜1687)には絵様・彫刻は彫りが浅く、曲線に勢いがあり、緊張感が保たれていたが、江戸中期(元禄〜安永・1688〜1780)には彫りが深く、曲線の勢いが鈍り、緊張感を失い、江戸後期(天明〜慶応・1781〜1867)には彫りが荒く、曲線は節度を失い、彫刻が氾濫することとなり、近世の意匠は芸術性という観点からは評価の低いものとなった。その背景には、江戸中期には浄土宗・真宗本堂などでは角柱を丸柱とし、鴨居を虹梁として内部空間を拡張し、その空間を利用して組物や彫刻を飾り、江戸後期に入ると天台・真言宗本堂では外陣外側の建具を撤去し、礼拝のための開放的な空間を造るなど、本堂における仏堂化と開放化の現象があった。
 このように、東海の寺々はその時代の社会の動向を建築空間に反映させ、棟梁たちの精神と技を雄弁に物語っていた。そして、近世の建築界の示した空間と意匠への発露は、新たな時代の到来を待ち望むものであった。
すぎの・のぼる/1952年静岡県生まれ。昭和50年代から同60年代にかけて、浅野清博士の下で愛知・岐阜・三重・静岡の近世社寺建築の調査を行ない、各県の近世社寺調査報告書の刊行に関わる他、禅宗と大仏建築の源流を求めて、中国・東南大学建築研究所に赴き、江蘇・浙江・福建・広東・広西・雲南・四川省の調査を行ない、今なお日中両国の建築の比較研究を行なっている。著書に『国宝・高岡山瑞龍寺』『社寺境内図資料集成』『松平・徳川氏の寺社』等多数ある。趣味は読書、旅行。