建築教育への期待 第10回
建築家教育は大学内で完結できるのか
今井 正次
(三重大学工学部建築学科)
 「建築家教育」というテーマを与えられ、日頃から考えているテーマのはずであるが、思いを巡らすだけで簡単には書けない。「建築」教育はできても、「建築家」教育を日本の大学でできるのか、めざすべきなのか、めざしてよいのかという思いも想起するからである。
 そこを正面から論じようとすると、「建築家」とは何か、「建築家教育」とは「建築教育」と違うのか、という課題と向き合わなければならない。
建築家にはいかなる能力が期待されているのか
 建築家とは何か。と正面を切って定義しても解決にならない。しかし、社会からの建築家への期待はどう変化しているのだろうか。一方で、不景気という建築をつくる機会が減少し、「建築教育」をしても就職できない社会情勢である。建築学科の卒業生を送り出す立場としては、建築学科卒業生の活躍の領域を拡大しないといけないと考えている。いわゆるファシリティマネジメント関連業種・建築の素養を持った地方自治体の一般行政職、コンポーネント開発関係業種など建築界を下支えする業界にも人材を送り出そうとしている。
 一方、都市環境の再生、地域の活性化、広い意味での環境問題で果たす「建築家」の役割と期待はどんどん拡大しており、そうした発言をし、実績を上げている「建築家」も現われ始めている。決してマスコミをにぎわす一部の「建築家」だけではなく、地域に密着し、地域で信頼され、活躍している事例もよく耳にするようになった。建築仲間としてすばらしいことだと感じている。
 しかしこうした分野は「建築家」の専売でなく、別の分野から育った職能人にも開かれているべきであろう。建築界の職能を浸食されており、「設計の守備範囲が狭まりつつある」という認識にもなるし、建築職能人の役割は拡大していると見ることもできる。
「建築家」教育に何が必要か
 このシリーズの先輩諸氏はそれぞれ建築家に期待される能力を論じておられる。ある場面では、「社会性・文化性のあくなき追求」といい、同じ筆者が「コーディネータとして」といい、「設計の守備範囲が狭まりつつある」とも言っている。また、「ラピットプロトタイピング(Rapid Prototyping速く試作品を作ること)」で従来の建築家像を変えていく必要があるという視点、「建築教育は0歳から始まる」「ユニバーサルデザインのめざすもの」「市民参加の計画づくりは市民教育の場」「市民の要求」のように一社会人としての素養を極めることを求める視点、「ミクロの積がマクロを創造」という神のような能力の要求もある。どれも正しい。必要な能力のように見える。しかし、教育する側からすると全体像を示してくれない。もっとも基本的で、常識的に「美的、技術的な要求を満たすような建築設計を創造する能力(「1.2.職能の文脈、UIAと建築教育・REFLECTIONS AND RECOMM-
ENDATIONS」)の教育についてだれも具体的に論じていただけない。応用編・特論だけ教育すればよいというわけにはいかない。
 こんなに幅広い期待に対して「建築家」教育は何をなすべきか。欧米・中国の建築学科卒業生がほぼ100%設計事務所に就職するのに比べ、日本のそれはせいぜい20%であるという、日本の建築教育の特殊性を考慮するとして、20%を対象とした「建築家」教育という見方も必要である。設計事務所へ就職すれば「建築家」という判断もまた一方的かも知れない。設計事務所で活躍するのは、ある意味では「狭められた建築家業務」かも知れない。本当は設計事務所でない領域で活躍する人が、幅広い「建築家」らしい活躍をする可能性も看過ごせない。という意味で、全建築学科の卒業生に同じ質の教育をしたいという期待と、真に設計技術としての教育をあるレベルまで全員を到達させるのが非常に困難であるという現実の間で、考える必要を感じている。
「建築家」教育の基本的内容とUIAのスタンス
 皆さんの並べておられる幅広い期待は、個人の天賦・努力によるところが大きく、教育という概念では対応できないところもある。しかしそのモチベーションを高揚し、基礎素養を付与する役割は教育の責務であろう。で、その責務の具体的内容は何かと言うことになる。
 UIA(UIAと建築教育・REFLECTIONS AND RECOMMENDATIONS)の文章を借りれば、「建築教育の文脈」として、社会的・文化的・政治的文脈、職能の文脈、職能的文脈、技術・産業界の文脈、学術的文脈、教育の国際的文脈、という視点をふまえて、「履修課程で保証されるべき能力(Carricular Capabilities)」としてデザイン、知識、能力について、Ability, Understunding, Awarenessなどと使い分けてはいるが、それぞれもっともすばらしい項目が羅列されている。一生かかって学ぶべき内容とも受け取れる。ここに書かれているのはある理想型とも解釈できる。現時点の自分を考えても、これだけを十分マスターしているかと問われると赤面するしかない。この読者とてたいして変わるものではあるまい。
 今や建築家といえども一人ですべてをできるわけでもないし、あくまでも教育すべき能力の広がりと理解したい。その上で、UIAドキュメントおよびユネスコとの憲章を概観すると、具体的要点は、建築家として国際的に認定されるためには、5年以上の大学建築教育を受け、その中で時間にして1/2以上の設計教育(この定義は不明である)を受け、その間1年以上のインターンシップ等の実務教育を受けることに要約されそうである。
 建築家教育としての実務教育についてはこの後で述べることにして、建築家はなぜ大学の卒業が必須条件なのだろうか。一級建築士は厳しいとはいえ、必ずしも大学卒の必要はない。「大建築家」安藤忠雄の例を出すまでもなく、大学を出ていなくてもすばらしい活躍をしている「建築家」は少なくない。少なくとも他の分野を極めた「建築家」が誕生する余地が残せないものか。建築家はいろんな育ち方をしたらいいと考えるがいかがなものであろうか。職能団体としてのJIAメンバーはこの点どう考えておられるのか知りたい。
実務教育の可能性
 さて、本題の建築家教育としての実務教育について。「建築家」として認められるまでには実務教育が必要であることは当然であるが、大学の在学期間内にそれをどれだけ期待できるだろうか。大学を卒業してから実務教育を受けるのではいけないのか。一級建築士の受験資格でさえ、卒業後2年の実務経験が必要となっている。現在は大学院も実務と認められるという状況の中で一級建築士の実務経験が不十分であるという認識はあろう。「建築家」と一級建築士は自ずと違うが一級建築士とUIAあるいはJIA「建築家」が共存しようとするならば、責任ある実務経験を10年ぐらいで試験制度を設けるという考え方はないのだろうか。今、実務を辞めて受験勉強をして一級建築士を取ったペーパー一級建築士が増えている様な気もしている。
 話は少し横道にそれたが、なぜ大学を卒業するまでに実務教育を一旦終えるという考え方をするのだろうか。継続研修制度もスタートしたではないか。
 オープンデスクやインターンシップで、お世話になっている側としては若干言いにくいが、2週間程度の実習では事務所の雰囲気を感じてくるだけだろう。もともと実務教育はUIAの設定では1年単位である。1年という期間ならば少しは責任ある実務に携わらせてもらえるのだろうか。1年間を通して学生を受け入れていただける建築家(事務所)がどれだけあるのだろうか。学生の実務教育として質の高い活動をしている建築家がどれだけいるのだろうか。UIAの制度に乗るのもやむを得ないかも知れないが、受け皿は十分用意しているのか。その能力を切磋琢磨しているのか。と問いたい。それより、On the Jobの責任ある立場で実務を経験しなければ真の実務教育にはならないと考える。なぜ、職能団体であるUIAは「建築家」教育を大学にゆだねてしまおうとするのか。「建築家」資格(こんなものが存在し続けるとするなら)は、実務経験10年というような実力者を試験制度なり、実績なりで職能団体が認定すればよいのではないか。
 なぜ、職能団体であるUIAやJIAが、後輩の建築家教育を放棄して大学内で完結させようとするのだろうか。馬場璋造氏の「日本の建築スク−ル」で取りあげているのも日本の17スクール中、設計実務をしていない大学研究室は極わずかである。実務をじっくりこなしながら、先輩の薫陶を十分受け、「建築家」のための実務能力を養うのが一番でないのか。プロジェクトマネージャーなどこうした考え方で資格認定しているケースも少なくない。
大学でできる「建築家」教育
 大学を変えたくないというわけではない。大学も変わるべきところは少なくない。また、大学の教育責任を免れようとするものでもない。JABEE(日本技術者教育認定機構)による改革が実効を上げれば、ある程度成果が期待される。JABEEは資格とは無関係であるが、純粋な意味で大学教育の改革・改善のきっかけになればよいと考えている。で、大学でできる「建築家」教育、大学でもっとも効果の上がる教育は何かという視点で考えると、幅広い問題意識と論理的思考の訓練であろう。研究を通して、論理的思考・建築の一側面のボーリング的探求により、思考の深さと広がりを会得するのがもっとも大学でできる、また大学でしかできない「建築家」教育である。研究テーマは、建築の今日的で意義ある課題であればとくに限定する必要はない。
 具体的には他にも5年修学問題、設計教育の量などもあるが具体的に触れる余裕がなかった。少なくとも「建築家」としての実務教育を大学にまかせない方が良い。