音 楽 と 空 間 C

  ヴェネチア〜ノーノ〜カッチャーリ


水野みか子
(作曲家・名古屋市立大学芸術工学研究科助教授)
群島性を芸術的に昇華させたノーノ
 1924年1月29日にヴェネチアに生まれ1990年5月8日にヴェネチアで没しサン・ミケーレ島に眠る作曲家ルイジ・ノーノの音楽は、40以上の島からなるヴェネチアの街そのものであるかのようだ。「動かない土地」と呼ばれる本島とその他の「群島」との間に海という媒介物によって打ち立てられた緩やかな共同体組織。ヴェネチアの群島的特質はそのままノーノの音楽にもあてはまる。「群島」という言葉を使ったのは、かのヴェネチア市長マッシモ・カッチャーリだったが、カッチャーリが、グローバリゼーションと各地域共同体とが矛盾なく両立する理想世界を象徴する「群島性」をヨーロッパ全体に対して用いた(注1)のに対して、ヴェネチア的精神風土を「群島性」理念として芸術形式に昇華させたのは、ノーノその人であった。「沈黙の悲劇」とも呼ばれるノーノの『プロメテオ』は、まさにカッチャーリ自身の手になる台本によって「群島性」を特殊な音楽形式へと昇華させた作品だと言うことができる。
 『プロメテオ』は20世紀不朽の名作オペラの一つと位置づけられ、サン・ロレンツォ教会上演で船底のような装置を打ち出したレンゾ・ピアノや、山口県秋吉台芸術村に『プロメテオ』上演のために「中心のない(特殊な)ホール」を設計した磯崎新ら、建築家の名前とともに語られることが多い。加えて、先に示したカッチャーリとのコラボレーションが「群島」をキーワードにしている―――ノーノの『プロメテオ』では各場面は「島(isola)」と名付けられている―――という事実はユルバニストたちから熱い注目を浴びている。
 建築家や都市研究者の興味を引いた「群島性」は、そもそもノーノの音楽劇においていかなる内的意味を持っていたのか。

秋吉台芸術村で『プロメテオ』上演の準備をするハインリッヒ・シュトローベル・スタジオのリシャール氏(中央)とシュトラウス氏(手前)

サン・ロレンツォ教会での『プロメテオ』の音の空間移動に関するノーノのメモ
オペラではなく音楽劇
(teatro musicale)
 ノーノは、第二次世界大戦後間もなく開始されたドイツの芸術家村ダルムシュタットでの現代音楽夏期講習会でピエール・ブーレーズ、カールハインツ・シュトックハウゼンと知りあい、互いに論戦を戦わせながらセリエリズム、電子音楽、アンガージュマンといった前衛的音楽思考を敢然と遂行していった。一方、ダルムシュタットより以前、イタリアでの一学生として法学と音楽を学んでいたノーノは、周囲の多くの学生とともにレジスタンスに共感し、1952年には共産党に入党する。50年代のイタリア共産党と最前線の音楽創造との結びつきは、ファシズムへの対抗、権力への反発、19世紀的世界観・形式意識への疑念などと同義であった。オペラ劇場での、19世紀的でわかりやすいストーリーもまた、作曲家たちが対峙すべきラディカルな問題であった。
 連載第1回でとりあげたリベスキントも問題視したシェーンベルクの未完の名作『モーゼとアロン』は、1954年にハンブルグでようやく世界初演されたが、ノーノはこの初演に立ち会い(この初演の翌年にノーノはシェーンベルクの愛娘ヌーリアと婚約する)、舞台作品における器楽的音高構成と構造の理論を、視覚的・肉感的でかつテクストの意味世界を背負った形式へと移しかえる道を模索しはじめた。こうした時期にノーノの最初の総合舞台作品『イントレランツァ(不寛容)−2部からなる舞台付の筋』(1960/61)が生まれる。
 『イントレランツァ』『愛に満ちた偉大なる太陽のもとで』(1972-74)、そして『プロメテオ』(1984-85)という三作品は、上演形式の観点からノーノの舞台上演作品三部作であるといってもよいだろう。いずれも「オペラ」と呼ばれることを作曲者自身が厳しく否定し、「テアトル・ムジカル」という音楽史の一般名称または「舞台行為ないし舞台筋展開(azione scenica)」という呼称を付されている。
 「舞台行為」は、視覚と聴覚という二つの面で、そして舞台上の行為を自らの身体を通して受容する観客たちの認知システムの面でも、互いに異なる複数の個性を並置していくプロセスを意味する。ほぼ10年ごとという間隔で実現したノーノ三部作の舞台リアリゼーションは、それぞれに異なる視聴覚上演技術を打ち出してきた。『イントレランツァ』はチェコの異才ヨゼフ・スヴォボダの技術に支えられた「幻灯機(lanterna magika)」によってマルチ・スクリーン・プロジェクションでの演出を実現し、『愛にーー』ではロシア人演出家ユーリ・リュビモフとの共同作業でミラノ・スカラ座とクラウディオ・アッバードの力を得て、センセーションをより多くの観客にアピールした。前述のように『プロメテオ』では、アシンメトリカルに立体螺旋を描いていく音の道を、音響的変容による静寂を「聴く」ための道具として実現したのだった(注2)。以下では、こうしたノーノの「音響空間コンセプト(Klang-Raum-Konzept)」の最初の到達点となった『イントレランツァ』の内面世界に踏み入ってみよう。
『イントレランツァ』の多次元空間
 『イントレランツァ』の音楽的相貌は、急激な強弱変化、歌唱の間に効果的に差し挟まれる叫び、同時に鳴り響けば確実に不協和な音程となる、広くそして遠く隔たった音程跳躍などである。『イントレランツァ』での声の処理方法は、明らかにシェーンベルクの『モーゼとアロン』の影を感じさせるし、互いに対面する位置で呼び交す声と声の対話は、16世紀のサン・マルコ寺院で慣例化していた「複合唱」の形式を思い起こさせる。こうした音楽的特性は、実のところ、「広さ」や「距離」という空間概念と密接に結びついているのだった。広い跳躍音程は、まさに音楽用語そのものとして空間的広さと同列の概念である。また、強弱の大きな隔たりや歌唱対叫びというコントラストも、個々の要素が属する空間が互いに離れていて異質のものなのである、という離散的異種並存状態を指し示している。
 スペイン市民戦争、アルジェリアの炭坑事件と国家的危機、仏領インドシナの民族独立の問題など、現実に起こっている様々な出来事は、ノーノの言葉によれば、「文化伝統や神経組織に刷り込まれた心理的洞察における種々の葛藤」なのであり、これらの葛藤は「偶然の関係性によって集まり、組み合わされている」。そしてこの並置状態を、ノーノは「絵画的」と呼んだ(注3)。画家というフィルターを介して歴史上の出来事や現実のアクチュアリティが限定されたキャンバスに描かれる。しかしそのキャンバスという枠組みは、資本主義とそれに抵抗する移民たちという二派のプロタゴニストをプリズム状に多次元的に描くことによって、枠組みを越えた向こう側にある人間と現実社会の射影をくっきりと浮かび上がらせるような、独特の窓を持っているのである。
 ブレヒト、エリュアール、マヤコフスキーらのテクストからの引用をちりばめた『イントレランツァ』の台本では、複数の異なる物語がノンリニアに持ち込まれて来るが、そうしたテクストの複次性は、舞台空間の多次元的活用にも結びついた。
 舞台空間を埋め尽くすようなマルチ・スクリーン・プロジェクションには、いくつものスライドやショート・フィルムが映し出された。そこに出て来る映像は、仔細なリハーサル風景やスローガンを掲げたマニフェストなどの記録と断片が並べ替えられ、形を変えられたものである。こうして編集されたマルチ映像プロジェクションは、客席空間を取り囲むサウンド・プロジェクションの立体性や縦横無尽な運動(kinematic sound)との相乗効果を持つ。舞台上で生起する一つまたは複数のアクションの一部始終も多次元的に提示される。単に機械的な並置というだけでなく,各々の要素の形を保つままで相互に対話して新たな機能を見いだしていくように演出される。それは視覚と聴覚という感覚媒体の独立併存であるよりもむしろ、「視聴覚+コンセプチュアルな体験」という十全な統合環境――すなわち、音楽と映像と台本と上演技術それぞれの分野での現代的充実が実現されたリアリゼーション――における、いくつものノンリニアな美的体験の集積なのである。
非日常空間のアクチュアリティ
 劇場ないしホールという非日常空間にあえて再構築されるアクチュアルな社会性を持った日常空間。その、非日常と日常を媒介するのは、(音楽学者ユルク・シュテンツル流に言えば)「感情文化」にとって代わった「世界理解」の時空間像である(注4)。そこでは、脈絡の見出だしにくい複数の出来事、現実と非現実、そして、観客が自らの現実生活での視聴覚体験に基づいて舞台上の一人の人物が何かのアクションをしていることを、ああそれだと認識するよりも前に、観客の意識内に生起しかけた認識の芽を覆すもうひとつの視聴覚体験が起こる。
 無秩序にも思われる異次元の並置は、しかしながら未だ「作者」ないし「舞台行為を創出する作曲家」という中心を持っている。同時代を生きたアメリカの実験音楽作曲家ジョン・ケージが徹底して「作者不在」のシステムを考えたのとは対照的だ。ノーノにとって現実のアクチュアリティが存在する劇場は、決して、世界の因果律を無に帰してしまうような、無制限に開かれた制度ではない。
(注1)「群島としてのヨーロッパ」、『現代思想』2002-8。
(注2)80年代半ば以降のノーノ作品のためのテクノロジーは、すべて、フライブルクのハインリッヒ・シュトローベル・スタジオによって製作された。
(注3)L.Nono:Einige genauere Hinweise zu Intoller anza1960.
(注4)J.Stenzl:Geschichten Luigi Nonos <Bewusstse instheater>