左官仕上げのテラコッタ
泥遊び精神B   壁の祈り
山本 寿仁(且R共建設専務取締役・土蔵保存研究室主宰)
 土壁は左官の仕事である。他に茶道で使う炉壇や、カマドも左官が手掛ける。後の二つは土の耐火性を利用したものである。
 土を壁にするのは身近な材料を用いることであり、その分左官の歴史も古い。現存する最古の土壁は法隆寺で見られるが、工法は基本的に現代のそれと同じである。
 左官という呼称が登場するのは桃山時代で、それまでは泥工、壁大工とも呼ばれていた。もっとも「左」の「官」であるから位は高く、仕事は寺院仏閣や城、貴族、豪農の館など。庶民とは無関係な世界であり、江戸時代に入るまでたいていの住居は近隣の力を借りて、荒土壁の家を手づくりしていたようである。
戦争と高度成長が 土の文化に衰退をもたらした
 土壁は板壁に比べ耐火性、調湿性にすぐれ、また材料を容易に手に入れることができる。壁材として主流を占めていた時期は、ある年代以上の方には左官が土を練る光景がお馴染みであるように、そんなに遠い昔のことではない。日本の家の特徴は開放的で、間仕切りを自由に取り外しできることにあるが、それでも壁といえば土壁が多かった。
 それが衰退したのは、まず戦後である。多くの職人が戦争にとられた。戦後の混乱期には金をかけて立派な家を建てようなどという奇特な人も少なくなった。農地改革により地主、つまり金持ちの存在が失せたことも原因になった。
 高度成長期に入ると、安価で手軽な新建材の台頭がますます拍車をかけ、土壁の需要は減少し、これはすなわち左官職の衰退をも意味した。
父と祖父、二人の土の職人

左官仕上げの壁はいか様にも表現可能
 私の家は祖父の代から続く左官であり、弟子たちが父を「親方」と呼ぶのは、子ども心になかなか気分のいいものであった。
 祖父は腕のよい職人であり、とくに黒の磨き壁は名人ともいわれたらしい。乱反射がなく、人や風景をクリアに写し出し、漆黒の鏡と呼ぶにふさわしいほどであった。
 この黒壁の磨きは熟練の技術を要するが、重ねて材料が祖父のオリジナルであったことを私は誇らしく思い、残念でもある。松煙炭と石灰を縁の下で寝かせ、いろいろな材料と調合したようだが、配分や寝かせの期間をだれにも伝えないうちに鬼籍に入ってしまった。もう祖父の壁を再現できる者はいないのである。
 1920年(大正9)生まれの父は、10代前半で祖父のもとに弟子入りした。わが子だからと甘やかされることもなく、他の弟子たちとともに厳しい修行の日々を送ったそうである。
 ところが数年で第二次世界大戦にかり出され、その時点で大方の見習い職人と同じく、父の修行は終止符を打たれた。晩年は組合の代表や訓練校の理事などを務めたが、左官職への思いは強く、私が土をいじりはじめたときも「さすがは俺の息子だ」と喜んでいたものである。
 戦争のため十分な修行時代を過ごせなかった父ではあるが、新しいコテを考案し、県の表彰を受けている。塗りには四段階がある。下塗りや中塗りは滑らない地金のコテが使われたが、表面仕上げはよくしなう必要があり、鋼(ハガネ)のコテが使われることが通常だった。父は鋼に代わり、プラスチックのコテを作った。柔らかく、「波消しコテ」つまりコテの跡を消すのに勝手がよい、と職人たちからも評価を受けた。
モノを作る、創意工夫する 職人の醍醐味

左官職人で著名な
渇ェ田建工代表取締役岡田明廣氏
 祖父は黒の磨き壁、父はプラスチックゴテと、私の家では二代が並んでオリジナルの仕事をしたことになる。実はこれは職人の世界において、何ら特殊なことではなかった。
 コテを例にとろう。左官にとってコテは、絵描きの絵筆、料理人の包丁に相当する。形状は大別すると「中くび型」と「もとくび型」があるが、カタチも大きさも素材も、実際には作業の用途によって数え切れないほどの種類がある。
 数え切れないとは誇張ではなく、実際に既製品以外に、自分が使いやすいように、また用途に合わせ、自作し、注文して作らせたコテが世の中にゴマンと存在するのである。左官の数だけコテがあるといって過言ではないだろう。
 モノを作り出す以上は創意工夫するのは当然のことであり、醍醐味である。けだし「艱難辛苦を乗り越え、ついに編み出した新しい技法云々」ともったいぶった風ではなかったであろう。評価を受ける前に、まず必要で、自分が作りたいから作ったのである。イメージしたものが現物となり、出来映えがよかったときの喜びは、今も昔も変わらない。
 こうした姿勢が古より連綿と受け継がれ、一つにコテというカタチが今にある。職人の創意の歴史をひっそり語るコテに衒いがないからこそ、私たちは一層誇りを読み取ることができるのである。
建て主と職人の蜜月の時代
 「わたり職人」という存在をご存知だろうか。身ひとつで全国を渡り歩く左官である。彼らは高い技術と知識を持ち、行く先々で大切に扱われた。仕事を受けると宿と食事は無償で提供され、それも「お客様待遇」であった。見習いたちはいつかこういう身分になりたいものだ、と立志するのだった。
 わたり職人は工賃を、自分から申し出なかった。
 「仕事を見て判断してくれ」
それだけ自信があったのである。
 対して建築主も家づくりの基礎的な知識があり、仕事をよく理解していた。先述したように、簡単なものなら自分たちで建ててしまうのが通例だったからであり、また身近に職人の仕事が多くあり、自然、目も肥えていたのである。
 わたり職人に仕事を依頼するのは、建築主にとって真剣勝負であった。家造りとは建築主と職人の共同作業であったからである。
 これにはちょっと補足が必要である。現代の人々は、家とは買うものだと思っている。大手メーカーの規格品を運び入れ組み立てるのが家なのである。
 わたり職人は、すべて自分でやる。材料は地元で採取するが、聚落土や大阪土など調達することもあったが、何とどう配合するかは職人の裁量であり、「企業秘密」として明かさないことも珍しくなかった。
 建築主と左官の付き合いは一年に及ぶ。家を建てるには季節が重要で、たとえば建前は秋であり、壁の塗りは空気の乾燥する寒中に行なうべきなのである。
その間、建築主と職人は一軒の家を建てるという目標を抱き、共同作業者として信頼関係で結ばれる。自身も目利きである施主は職人に問う。
 「こんなことはできないか?」
何ができるか、どんな素晴らしい仕事を引き出すかは、建築主の心積もりや裁量による部分も大きかったのである。
 要望に応えようと、職人は俄然やる気になったことであろう。そこには未知の分野を開拓する喜びが待っていた。職人は金に糸目をつけず、手間と時間をかけ、満足のいく仕事を行なうことが許された。そんな夢のような、建築主と職人との蜜月時代が、戦前まで当たり前のようにあったのである。

コテの百花繚乱
「祈りのある壁」
 すぐれた左官の条件とは何であろう。土の特性をよく知り、どんな壁もこなす技量があることはもちろんだが、それだけでは一介の技術屋で終わってしまう。
 職人はワザを磨き、建築主の求めを理解するためにも幅広い視野と知識、そして柔軟な脳を持たなければならない。茶の湯や華道で美意識を高め、社会情勢に通じ、道楽さえも仕事の糧となった。「遊び心」はモノ作りに不可欠だからである。そして何よりも大切なことは「祈り」だと、榎本新吉さんは言う。
 「うまい職人はいくらでもいるよ。でも俺の壁には祈りがあるんだ」
 現在左官の最高峰である氏は、今も祈りを唱えてから仕事にかかるという。これはどういうことか。
 左官という仕事は相手が自然である。いや左官だけでなく、かつてはどの職人も自然界から材料を得て仕事をしていた。そこには当然、悟りのようなものが発生する。私たちを生かし、糧を与えてくれる自然。それに畏怖を感じる鋭い感覚を持ち得ればこそ、手を合わせずにはいられない。
 しかも自然は職人の腕を超越し、素晴らしい表情を見せるのだ。時間の経過にしたがい色を微妙に変化させるのはナゼだ、どうしてそんなに優しい風合いを見せることはできるのだ。実は職人が自然素材を材料にするのではなく、自然という芸術家に仕えるために選ばれた者たちを職人というのだ、という気さえしてくる。
 さて現代社会で人は、自然への畏怖を失いつつある。あなたは壁の祈りが見えるだろうか。