揚輝荘 郷土史 まちづくり 第5回

華麗なる夢舞台から 「揚輝荘の歴史」
佐藤 允孝
(千種郷土史学習会)
今回は、「揚輝荘」の歴史を、創建者の伊藤次郎左衛門祐民氏の経歴と合わせて概観して見たいと思います。
第T期(創生期) 私的な別荘時代
  大正7年(1918)に最初の建物が造られてからの数年間が、「揚輝荘」の創生期と言えます。建物の中心は、矢場町五ノ切(現・松坂屋本店の地)にあった「揚輝荘座敷」と徳川邸から移築された「有芳軒」です。祐民氏は、大正11年(1922)ごろから「座敷」で起居するようになりますが、「揚輝荘」は、まだ身内や内輪の催し物に使われていたと思われます。
 経営者としての祐民氏は、すでに明治43年(1910)、栄町角に近代デパート鰍「とう呉服店を創立していますが、関東大震災(1923)の際には、駆逐艦に乗って生活必需物資を被災地に供給してその声価を高めました。
第U期(発展期) 迎賓館・社交場としての賑わい

「聴松閣」玄関で睨みをきかす石の虎。中国旅行の際、祐民氏が入手したと思われるが、「大齊永明六年ニ月二十五日敬造」の彫がある(西暦488年か)
 祐民氏は、大正13年(1924)、15代伊藤次郎左衛門を襲名しました。この時からの約10年間が「揚輝荘」の発展期と言えるでしょう。この間、大津町に大百貨店(屋号を松坂屋に統一)を開店し、また名古屋ロータリー倶楽部会長や名古屋商工会議所初代会頭に就任し、昭和6年(1931)には、千人の支那使節団を率いて日中の親善に努めるなど、経営者・財界人としてもっとも円熟した時期でした。
 「揚輝荘」には、大正15年(1926)に「豊彦稲荷」が勧請され、「伴華楼」など茶室を持つ建物の移築が続きました。祐民氏の活動の広がりにつれて、皇族、華族や高僧、財界人など多彩な人々の来荘、宿泊が頻繁になり、園遊会、観月会、茶会なども数多く開かれる豪華な迎賓館、社交場として別世界を構築するようになりました。
第V期(完成期) 建て主の思いが結実
 昭和8年(1933)、祐民氏は、自ら定めた55歳の定年制にしたがい、松坂屋社長などすべての公職から引退し、余生を社会事業に捧げるべく、(財)衆善会を設立しました。この年から祐民氏が永眠する昭和15年(1940)までが、「揚輝荘」の完成期であります。昭和9年(1934)、インドを始めとする仏跡巡拝の旅に出かけ、その記録映画を写しての講演会は各地で好評を博し、3年間で50回、延5万1千人を集めました。
 この期間も、種々の建物が次々と増築されましたが、象徴的な建築は、インド旅行のイメージを投影したと言われている「聴松閣」です。地階には旅に随行したインド人ハリハラン氏が残したヒンズーの女神の壁画に加えて、神秘的な「瞑想室」といわれる小部屋も残されています。また2階の北側「書斎(展望室)」は英国風であり、東側の「寝室」は空襲で天井が破壊されたままになっていますが、壁には「中国間」風の装飾が残っており、この建物には欧米視察(1922)や数度にわたる中国旅行の思い出も刻み込まれていると思われます。祐民氏が晩年、もっとも情熱を傾けて新築した「聴松閣」は、彼の思想、趣向、遊び、贅など、幅広さと奥深さを秘めており、これが今日まで残されてきたことは幸いでした。来訪者も多方面の外国人、文化人など千客万来で、何千人にもおよぶ園遊会もしばしば催されており、この頃が「揚輝荘」がもっとも華やいだ時期といえるでしょう。昭和11年(1936)には、シャム(タイ)から初の外国人留学生を受け入れています。祐民氏は、明治11年(1878)戊寅年(五黄)生まれであり、同年の各界名士(広田弘毅前首相、松井石根大将、竹中藤右衛門等20数名)を名古屋へ招待し、「戊寅会」を開いたり、大石良雄山科閑居を模したといわれる「端の寮」で「義士釜の茶会」を催したり、引退後の余生を遊び、楽しんでおり、「揚輝荘」に対する彼の思いが伺えます。
 還暦を迎えた昭和13年(1938)、自らの年譜『戊寅年契』を頒布し、翌年1月の手術後、「聴松閣」の2階で療養を続けていましたが、10月には茶屋町の本宅へ帰って家督を譲り、翌15年(1940)1月25日、粉雪の降りしきる朝、「揚輝」大人は永眠しました。
第W期(転換期)・第X期(再生期) 揚輝荘の温故知新
 太平洋戦争前後の混乱・破壊期、一部の建物が松坂屋社員寮として利用された時期を経て、昭和45年(1970)「月見ヶ丘マンション」の開発が行なわれた頃までが第W期(転換期)と言えるでしょう。
そして今年、非営利団体「揚輝荘の会」が設立され、今後の再構築、活用化の検討が続けられています。これからが第X期(再生期)として位置づけられていくことが期待されます。
 こうして「揚輝荘」の歴史を振り返って見ますと、栄枯盛衰の感を禁じ得ませんが、そこには、大正、昭和初期の社会・文化が凝縮されており、その歴史資産としての価値は、今もって、いや今だからこそ、大きく輝いているものといえます(9月13日から名古屋市博物館で「伊藤次郎左衛門展」が開かれます)。
上左 園遊会スナップ1 松坂屋社長退任のとき(昭和8年(1933)・有芳軒)
上右 園遊会スナップ2 義士釜の茶会(昭和13年(1938)・端の寮。たばこ盆を持つのが祐民氏)
左 月見ヶ丘開発前の「揚輝荘」(昭和43年頃。今は無き建物も見える。上方の空地は日泰寺境内だが、まだ新本堂、山門、五重の塔はない)