音 楽 と 空 間 B 

  「人の住めない空間」の歴史と今日


水野みか子
(作曲家・名古屋市立大学芸術工学研究科助教授)
非日常空間としてのホールと宗教性

写真1 豊田市コンサートホールとパイプオルガン。
オルガンは2003年8月に公開される
コンサートホールは、都会の日常環境から切り離された閉じた空間として設計されている。さらに、今日の日本の新設コンサートホールではパイプオルガンが設置されることも珍しくなく、オルガンはひとつの楽器でありながら、また同時に視覚的にも豪華な家具調度であり、西欧の文化・宗教の香りを漂わせて圧倒的存在感を誇っている。現代日本における非日常空間でパイプオルガンを目前にして過ごすコンサートの時間、そこに濃密な音楽的時空間が立ち上がることは言うまでもない。
 ここ数年は、コンサートホールに設置されるパイプオルガンに関して、高価なわりに設置後の稼働率や集客が少ない、といった問題が浮上してきているが、一番の最新状況から言えば、そうした問題への対応策をはかって万全のスタートを切るホールも少なくない。豊田市コンサートホール内に今夏完成されるオルガン(写真1)も、演奏講座、ヒストリカル・レクチャー、オルガンのための新作初演など、レパートリー拡大や様々な公共化プログラムを用意している。
 日本における、ホールの公共性とパイプオルガンの間に立ちはだかるこうした問題は、まさに、先に述べた「高密度の西洋的時空間を打ち立てる非日常性」そのものに起因している。非日常性は長所でもあり、欠点でもあるわけだ。
 翻ってヨーロッパでは、パイプオルガンはカテドラルをはじめ、教会に付随する「神の楽器」としての歴史を持っており、教会の歴史的重みや宗教心と一体化していた。コンサートホールや音楽専用上演空間へのオルガンの設置も、宗教的色彩を日本よりもはるかに色濃く帯びてのものである。
 しかしその宗教的色彩は、今日のヨーロッパ、とりわけフランスでは、世界遺産を含む史的建造物と、ひとつの類似した脈絡で「新しい精神性」の色合いを獲得してきている。今回は、ヨーロッパの歴史的建造物とパイプオルガン付音楽ホールにおける「新しい精神性」の例を考察してみたい。
 具体的には、電子音響音楽と呼ばれる電子音楽の一分野が、誕生以来50年間の歴史の中で培ってきた、ヨーロッパ700年の歴史との対話による精神性であり、神の楽器・宗教の場と電子音楽との出会いに端を発している。そこでは700年の伝統が、とかく歴史の裏打ちが薄いと思われがちなデジタルアートに、歴史というカリスマ性を付加する機能を果たしている(写真2 パイプオルガンのある音楽ホールでの電子音響音楽上演)。

写真2 パイプオルガンを備えたホールでの
「アコースモニウム」コンサート
中世建築とデジタルアートの出会い
 「新しい精神性」は、戦後の「新しい音楽上演形式」に基づいている。この上演形式は「人の住めない空間」とも呼ばれ、電子音楽の初期形態のひつとであるミュジック・コンクレートの創造者たちによって考案された。そして多チャンネルによる音響空間制御のためのリアルタイムプレイシステム技術に支えられている。
 一般に、電子音楽ないしコンピュータ音楽の上演形態は、楽器演奏や歌唱などの生演奏を含むライブ・エレクトロニクスと電子音のみが響く電子(音響)音楽との二つに大別できる。電子音楽の歴史を50年強とするならば、前者は、1950〜60年代にはテープと生演奏という形態が主なものであり、80年代後半以降には、コンピュータによる信号処理を含むインタラクティヴ音楽の形として流行する。一方、後者の形態は、初期には「テープ音楽」という名で呼ばれたが、テープという媒体名が実情に適さなくなる頃には、「エレクトロ・アクースティク」(フランス語式発音で表記するのが通例)となっていく。   
 後者、すなわち、舞台や上演の場所には人間はいなくて、ただスピーカーが配置されているという上演形態がリアライズするのは、「人の住めない空間」である。
 「人が住めない(inhabitant)」のは、住居を構えられないというよりもむしろ、人がそこに入って立ち歩くことができないという意味であり、コンサートホールが住居を構えられない非日常空間である、という意味とは根本的に異なる。それは、人が物理的に入り込めない一種の仮想空間である。しかも、コンピュータやネットワーク内に作られる仮想空間とは異なり、実際にはスピーカーの間を立ち歩くことができるにも関わらず、音楽を十全な形で聴くための位置は決してスピーカーの間ではなく、操作卓や客席中央などに限られる、といった具合に、現実空間上での限定もある。そして特定位置で体験される「人の住めない空間」は、音楽を十全に聴くという条件の上に立ち上がる。 
 重要なことは、「人の住めない空間」は、入り込むことはできないが、あたかもそこに、人々がよく知っている生活空間や何らかの具体的視覚像が想像できるような状態を指している、ということである。想像を促すのは音であり、作曲家たちによって時間軸上で自在に組み合わされ空間上で配置された様々な音響が、人は立ち入ることができないが確実にそこにある空間を立ち上げていく。
 通常16〜80個くらいのスピーカーがコンサート会場に現実に設置され、音楽が開始されると、そこでは、重力が無く、日常的時間が流れていくような現実空間も姿を隠す。音色やその時間的変化といった音楽要素それ自体が持つ空間イメージ喚起力に加えて、現実に音像が行き来する。コントロールされた移動や回転といった運動(キネシス)が、重力や日常的因果律とは無縁だが確かにそこに存在する「人の住めない空間」を実現するのである。
 こうした上演形態は1970年代より「アクースモニウム」と呼ばれている。「アクースモニウム」の音楽的ルーツは、かつて「ミュジック・コンクレート」と命名された音楽形式にある。「アクースモニウム」の創始者フランソワ・ベイルは「ミュジック・コンクレート」の創始者でありラジオ・フランスの総監督を務めたピエール・シェフェールの共同活動者でもある。「ミュジック・コンクレート」は、「ミュジック・アクースマティック」や「実験音楽」といった呼称を経て、今や「電子音響音楽=エレクトロアクースマティク」として確たるジャンルを築いているのである。
電子音響音楽50年の伝統構築

写真3 ジャックケールの庭でコンサートを設営
 「ミュジック・アクースマティック」という呼称が示すように、これは、何がどのように音を生み出しているかが見えない状態で音だけが聞こえるような音楽である。このジャンルの音楽は、素材音の録音⇒音色加工編集⇒時間軸でデザイン⇒ディフュジョン(分配)、という手順で創作されるが、素材録音時に重力ある物理的空間から切り離された音は、波形編集や時間軸デザインによって音楽本来の空間喚起力を獲得し、ディフュジョン段階で、さらに空間パラメータを表現要素に付け加えて「人の住めない空間」を実現する。
 世界遺産に指定された大聖堂を擁する街ブールジュでは、電子音響音楽の研究とフェスティバルを40年近くにわたって継続している。そうした国際大会の場で見る今日の音楽状況を概観すると、時間軸/空間軸両面での音楽設計を構築する構造基盤は、フランス、アルゼンチン、アメリカ合衆国などの各国や文化圏の「聴く耳」の知覚傾向を如実に反映している。音楽祭は多彩でグローバルな音風景や心象風景を作曲様式にこだわらずに発表する場となっている(写真3 フランスのブールジュで行なわれている国際電子音響音楽祭のコンサート会場のひとつである、ジャックケールの庭でのコンサート設営)。
 電子音響音楽は「耳のための映画」という異名もある。人は入り込めないが、音の動きを確認しながら聴くサウンドドラマは、立体的で何らかの日常風景を彷佛させる。かつてミュジック・コンクレートの草創期には、数々のサイレント映画やモーリス・ベジャールの振り付けによるダンスとともに上演されたように、今日では、いくつかの電子音響音楽作品はCGアニメーションやビデオ、ダンスなどとのコラボレーションを実現しており、コンサート会場は、照明演出、映像、パフォーマンスなどによって、さらに立体的となっている。
 700年余りの歴史を持つ建造物とそこに込められた宗教的カリスマ性は、今完成されたばかりの世界中の新作電子音響音楽作品に彩られて「新しい精神性」を積み重ねているところだ。しかもそこには、19世紀以来のコンサートホールとは異なる場での上演を重ねて来た電子音響音楽の歴史――50年余りという短いものではあるが――も重層的に塗り込められている。音楽専用ホールではない場所や日常的な屋外空間に精神的意味を与える役割は、歴史と音楽との双方によって果たされていると言えよう。