揚輝荘 郷土史 まちづくり 第4回

郷土史の楽しみ
佐藤 允孝
(千種郷土史学習会)
「豊彦稲荷」の追跡


緑の中の豊彦稲荷外観
 揚輝荘庭園の北端に、うっそうとした緑の中に真っ赤な鳥居が見え隠れして、「豊彦稲荷」の社が静かに鎮座しています。毎年、桜の頃には、ここで初午祭が催され、多くの縁者が参詣し、園遊会で賑わいます。
 ある時、「この豊彦稲荷は由緒あるものですか」「ご本社はどちらなんですか」と尋ねられ、「うーん?」。ここで郷土史研究的好奇心がわき、まず京都伏見稲荷で膨大な分社・お塚の台帳を調べましたが、「豊彦」の名はありません。堺市神明神社のホームページで見つかりましたが、「由来を調べておりますがまだ分かりません」と宮司さん。幸い、伊藤次郎左衛門家に豊彦稲荷に関する「勧進帳」が2通残っていました。昭和2年の揚輝荘華表(鳥居)のそれには、「洛外上岡崎村なる御所稲荷社内に遷し預け・・・」と。また、弘化4年(1847)のいとう呉服店の京店のものには、「山城乃国岡崎の里に鎮座まします宇賀御魂命正一位豊春御所稲荷大明神・・・乃御分身奉拝受豊彦大明神祟・・・」とあります。
 どうやら「岡崎村の御所稲荷」がキーワードらしい。『地名辞典』により、京都市左京区の鴨川の東が昔の「山城の国岡崎村」で、そこに「御所稲荷」があったことが判明。また、京店の初午祭には岡崎神社の宮司さんが来られており、「先代が御所稲荷の宮司を兼ねていましたが廃社になり、岡崎神社の宮繁稲荷に合祀されています。跡地は駐車場になっているはずです」とのこと。
 「御所」とは? 京都府立総合資料館を訪ね、『新修京都叢書・第十九京都坊目誌』で「御所稲荷ノ社」発見。「字福の川春日通の北側三番戸にあり。門祠宇共に南面す。祭神倉稲魂命とす。始め御所の苑中に祀る。寶永五年(1708)三月八日仙院炎上し。翌年八月二十八日内旨を下し此に遷す」。
 住宅地図によりその地は、京都市左京区岡崎西福ノ川町の「山口貸ガレージ」であろうと推察して視察。『勧進帳』には、「塀廻りを聡石垣に築あげ」とあるが、そこには柵や垣に使ってあったと思われる石が無造作に転がっており、鳥居の跡らしき礎石もあります。近所の方に尋ねると、「確かにここに稲荷社があり、山口真一さん宅に狐が残っているはず」「山口さん?」京店の『勧進帳』には「神主山口常陸之亮」、明治37年(1904)の「家運長久商業繁栄」のお札にも「神職山口真景」と見えるのは、ご先祖に違いない。
 かくして、豊彦稲荷の親は御所稲荷、その出生地は仙洞御所(上皇の住居)、本籍地は岡崎西福ノ川町13番地、現住所は岡崎東天王町51岡崎神社内宮繁稲荷であり、正しく由緒正しきことを解明。「豊彦」の名の由来は、「豊春」から1字いただいたものか。しかし、堺神明神社の「豊彦稲荷」が兄弟なのか、同名別人なのかは、いまだ不明です。
 お稲荷さんは、その名が示すとおり農業神から始まり、工業(織物)、商業の神へと広がっていきました。『今昔物語』には、「今ハ昔、如月ノ初午ノ日ハ、昔ヨリ京中ニ上中下ノ人稲荷詣トテ参リ集フ日也」とあり、破子・酒などで楽しんだといいます。稲荷信仰では、一寄進は避けると聞きますが、京店『勧進帳』には158名の記載があり、各種取引先や儀助さん、長七さんなど丁稚たちも銀1匁ずつ寄進しております。揚輝荘『勧進帳』には、3千2百余名、また、手水鉢にも16名の寄進者が刻まれております。
このように、お稲荷さんは皆の寄進で、皆がご利益を願って、皆でお祭りするものでした。初午祭は、宗教行事というより、昔からの庶民の生活、風俗のひとこまであり、民俗学の世界といっていいのではないでしょうか。そして、豊彦稲荷の社・鳥居は揚輝荘庭園の景色のコンセプトとしてなくてはならない大道具であり、長く保存されるべきものでしょう。


弘化4年(1847)の京店勧進帳の前文
織田信秀のおもかげ


月見坂にあった五輪塔
 揚輝荘の東にある城山八幡宮の地は、戦国時代の末森城址です。織田信長の父信秀は、天文16年(1547)、三河に対する備えとして、この城を築きましたが天文18年(1549)業半ばにして、ここで死去しました。末森城には信長の弟信行が入り、父信秀の菩提を弔うため、城のすぐ南(現在の名古屋市千種区穂波町)に桃巌寺を建てました(「桃巖」は、信秀の法名)が、信行は信長に謀殺され廃城となりました。
 その後、同寺は松竹町に替地となり、猫ヶ洞の洪水が度々起きるので、正徳2年(1712)、現在地の四ッ谷通りに移建したことなど、ご住職を訪ね、いろいろ教えていただきました。また、古文書に、末森城西北の地に信秀の廟所(信秀塚)があったとありますが、そこは、明治17年(1884)の地籍図では字月見坂、百五番埋葬地となっていて、旧姫ノ池の西に接した桃巖寺領で、槙の木の下の2m四方ほどの地に、信秀の墓石と三基の五輪塔が、末森城を見守るようにひっそりと立っていたそうです。ところが、その地は、揚輝荘の敷地の南端(南側の塀に接していたと思われる)にあたり、織田信長の家臣だった伊藤家の子孫が造った揚輝荘の地に、信長の父信秀の墓があったというのは、なんとも不思議な因縁を感じずにはいられません。
 昭和26年(1951)は、信秀没後400年にあたり、桃巖寺ではこの墓石と五輪塔を境内に移し、大五輪塔を建てて大法要が行なわれました。墓石の下からは、お骨も出たので、埋まっていた石に経文を書いて共に供養し、新しい塔の下に埋葬したということです。今は、木の根元で少し傾きかかった墓石の正面は「前備州太守桃巖道見大禅定門」、左面は「織田武蔵守信行公」、右面は「柴田修理勝家公」と読めますが、裏面は長年の風雪で判読が困難でしたが、『愛知県金石文集』によって、信秀の250年忌の寛政13年(1801)に石碑を再建したことがわかりました。世は徳川の時代であり、寺の財政も厳しく、少し小さめになったのでしょう。三基の五輪塔は、それ以前のものと思われますが、墓碑銘に対応して、真中の少し大きいのが信秀、向かって右が信行、左が勝家と推測できないでしょうか。桃巖寺に移されてからもなお、末森城址を向いて見守っているかのようです。
京をイメージか? 二つの道標

道標
「ひたり志らひげみち」

道標「ひたりきふね」
 揚輝荘庭園の一番高い所に「西行庵」と「峠の茶屋」がありましたが、今は枯草に埋まった礎石がわずかに見られるのみです。池のほとりから石段を上って行く途中に、「みちしるべ」と思われる石柱が2本残されています。「ひたり志ら(?)ひげみち」「ひたりきふね」と読めます。
さて、この道標は何物でしょうか。「きふね」は京都の「貴船」でしょうか、とすると「しらひげみち」は? 『日本歴史地名体系(京都府の地名)』を調べると、亀岡市神地に「白髭大明神」がありました。京都嵯峨の伊藤家別邸を起点に考えると、西(道標の左方向)に「白髭神社」、北(道標の左方向)に「貴船神社」がほぼ等距離で位置しております。揚輝荘の地は、古地図でもあぜ道さえ無く、「みちしるべ」があるのは不自然な土地柄だと思われます。施主の祐民氏が、優雅な遊び心から、京をイメージしつつ、月見茶屋の景色として、ここに移してきたのではないかと推測されます。
 揚輝荘の持つ、いくつかの郷土史的史料に興味を覚えて、追いかけてみました。ここには、いろいろな好奇心を駆りたててくれる素材がいっぱい詰まっています。このような、多様性、奥深さが揚輝荘の魅力といえるのでしょうか。