建築教育への期待 第9回
建築とコラボレーション

伊藤 恭行
(名古屋市立大学芸術工学部助教授・C+Aパートナー)
コラボレーションは前提である
編集部から「建築(家)とコラボレーション」という課題を指定された。勝手に推察するのだけれど、私がシーラカンスという協同で設計するというスタンスを標榜していた組織で建築家としてのキャリアをスタートさせ、今もその延長線上で仕事をしているからではないかと思っている。しかし、ここで書こうと思っていることは、それらとは一切関係がない。そもそも建築を造るということは他者とのコラボレーション無しには成立しない。それは、組織としての設計事務所と無関係とは言わないが、決してそのような狭い範囲の相互作用ではない。相互作用は建築を造り上げていく過程のいたるところに遍在する。
 思いつくままに列挙してみる。設計から現場にかけさまざまな人たちが交錯する。まず、クライアントとの関係に始まり、所轄官庁、構造や設備の協力事務所、スタッフとの検討がある。設計が進むにしたがって、サッシュ、ガラス、金属などのさまざまなエンジニアたちとの技術的検討が始まる。その過程で、事務所内のパートナーから建築家としての構えや課題についての鋭いチェックが入る(この辺りは協同事務所の特徴かもしれない)。現場に入れば、施工サイドとの打ち合わせが延々と続く。これも設計の意図を実現するために、設計と施工の両者が知恵を出し合って実現に向けて努力を重ねることになる。ひとつの建築を構想し具現化する為のあらゆる時点と、あらゆる次元で他者とのコラボレーションが発生している。
 コラボレーションの目指すところは最終的に良い建築をつくりあげることだが、これは諸刃の剣でもある。コラボレーションが有効に機能すれば建築の可能性を少しずつでも押し広げる力となるけれど、逆に作用すればお互いが牽制しあって凡庸な結果にしか結びつかない。「ミンナデ力ヲ合ワセレバウマクイク」などと言うのはきれい事にすぎない。別に世紀の傑作をつくる必要はないし私自身にそのような力があるわけでないが、少しでも建築の可能性を広げたいという気持ちは常に持っているのでコラボレーションをプラスの方向に向けることには自覚的でありたいと思っている。
コラボレーションを有効に作用させるには(これは設計をするという行為の基本姿勢と同義なのだが)、強靱であること、柔軟であること、他者へのイマジネーションを持つことが重要である。
自立していること=強靭であること
コラボレーションを成立させるには、まず、ある構想の元に建築を造り上げていくという強靱な意志が不可欠だ。建築家がものを造り上げていくための拠り所となる構想は極めて多様であるから、これは自分自身の判断の基準を明確にしていく作業になる。判断の基準は建築家ごとに異なっていて当然だ。フランク・O・ゲーリーとレンゾ・ピアノはまったく正反対の建築家だと私は思っているが、彼らの建築にはそれぞれ明確な価値判断の基準がある。ゲーリーは徹底的にアートとしての建築を目指しているし、ピアノは徹底的に技術がもたらす延長線上にある建築を目指している。ゲーリーの場合は非常に強い形態に対する構想があって、あらゆるプロジェクトにその構想が当てはめられることになる。ピアノの場合はアプリオリな形態に対する前提はないが、常に技術的なチャレンジを突破口に新しい建築のつくられ方を模索している。どちらの姿勢にシンパシーを感じるかは各人各様であるし、別にシンパシーを感じる必要もない。しかし、判断の基準が不明確なところではコラボレーションは成立しない。なれ合いのルーティンワークで建物が出来上がるだけだ。
判断の基準を明確にすることは、必然的に異なる価値基準との間にさまざまな軋轢を引き起こすことになる。この軋轢を一つの方向に集約していくためには、強い説得力を持つ理論武装と強靱な意志の力が必要になる。建築家は自立していなければならない。
開かれていること=柔軟であること
繰り返しになるが建築家は自立していなければならない、と同時に開かれていなければならないと思う。一人の人間が構想できるフィールド(範囲)は限定されている。このフィールドを自分一人の力で拡張していくことはとても困難なことだ。ルネサンス的万能の天才を想定すれば話は別だが、現代において一人の個人がすべての社会的・経済的・技術的・芸術的フィールドをカバーすることなど想像もできない。ここで、他者が介在してくる意味(コラボレーションの意味)が浮上してくることになる。
他者との関係は危機をはらむ。話を具体的かつ単純にしてみよう。事務所のスタッフと打ち合わせをしている時にスタッフの方から私が思いもよらなかった発想が提示されることがある。時には私の価値判断の基準に真っ向から対立する発想が提示されることすらある。この時、直感的な違和感と生理的な不快感を同時に感じることがある。違和感は自分が構想する建築の姿が別の展開を示すことに対するものであり、不快感はその可能性に思いいたらなかった自分自身に対するものである。新たに示された展開が建築の可能性を拡張するものである場合この不快感には嫉妬めいた感情すら含まれることがあるのだが、これに拘泥してはいけないと思う。個人にとっては発想の限界を思い知らされる危機だが、建築にとっては可能性を拡張することに繋がるからだ。自分自身の構想に閉じこもることは、その構想そのものを閉塞させてしまうことさえあり得る。可能性を拡張するためには他者への回路は常に開かれていなければならない。
他者へのイマジネーション
大学で学生の設計課題につきあう時、他者へのイマジネーションを持つことの大切さを強調するようにしている。建物を使用する人々は極めて多様である。年齢、性別、職業や社会的立場、幼児や老人や障害者などの社会的弱者などなど、実に多様な人々が建物に関わることになる。設計を進める際には、そのように多様な人々の立場に自分を置き換えてイマジネーションをフル稼働させ、アイデアを練り問題点を洗い出すことになる。
 自分自身の話で恐縮だが、昨年、設計した産婦人科の病院の現場が進行中である。設計から現場にかけて、私は医師になり、看護士になり、事務員になり、調理師になり、清掃員になり、当然のことながら患者やその家族にもなった。患者でも妊婦だけではなく、婦人病や乳ガンなどの問題を抱えた女性にもなる。妊娠はしたが、子どもを堕ろさざるを得ない女性の立場にも身をおいてみることもあった。ほとんど妄想と言ってもよいかもしれないが、ここで働いているイマジネーションはそのまま建築の担うべき社会性に繋がっていくのだと思う。
 この原稿を書き始めた時に吉武泰水先生の訃報を知った。私自身は、吉武先生の直接の薫陶を仰いだわけではない。面識すらないのだが少なからぬショックを感じている。
 吉武先生は建築計画学の草創期を担った先達である。創始者であったと言っても過言ではない。正直に告白すると、建築計画学の指し示すところ(すなわち「設計資料集成」に結実しているところ)は、建築家にとって役には立つが足枷にもなる煙ったい存在だとさえ思っていた。しかし、よくよく考えてみると計画学の支える一つの大きな柱は他者へのイマジネーションである。計画学の出発点は、他者へのイマジネーションを科学的な立場から共有の知見にまで高めようというところにあったのだと思う。
コラボレーションというと設計にしろ施工にしろ作る側の立場で協同することを想定しがちだし前段では設計する側においての他者の介在について述べたが、もっとも重要な他者は建築を使用する人々である。吉武先生は建築を使用する人々へのイマジネーションを馳せることで、他者とのコラボレーションを強く意識されていたのではないかと感じている。
素直に考えること、
当たり前だと思わないこと
これは逆説めいた言い方に聞こえるかもしれないが、とても大切なことだ。「素直に考えること」と「当たり前だと思いこむこと」はまったく異なる。
 建築家は誰でも何かしら新しい試みにチャレンジしたいという気持ちを持っていると思う。しかし、新しいことをするために新しい何かを構想しなければならないとする姿勢は建築家のエゴの現れにすぎない。建築が建築家個人の表現意欲(あるいは自己宣伝や誇大妄想)の道具であるならばそれも良いかもしれないが、建築は個人的表現以上により広い社会性を担っているはずである。周囲に対して自分は新しいというポーズをとることには自己満足か営業的な戦略以外にはほとんど意味がない。
 本質的に新しいことは、徹底的に「素直に考える」ことからしか生まれないと思っている。設計をするということは、前提となる様々な与条件(クライアントの要望、法規、コストなど)と向き合うことである。この与条件は既成の考え方を援用することでほとんどすべてがクリアされる。つまり常識を援用する(当たり前に解決する)ことでクリアできるし、自分のことを棚に上げて言うならばほとんど全ての建物はそのようなやり方で造られていると感じている。しかし、そこには与条件をクリアするための新しい視点は介在しないし、ましてや与条件自体に疑いを持とうとする姿勢はない。「素直に考えること」は、常識だと認識されていること(当たり前だと思っていること)に疑いを持つことに繋がるはずだ。当たり前だと思いこまずに、徹底的に素直に考えることが新たな可能性を切り開く鍵である。
 最初に戻ればコラボレーションの目指すところは、良い建築をつくること、建築の可能性を少しでも拡張することにある。そのためには、強靱であること、柔軟であること、他者へのイマジネーションを持ち続けることが重要だが、すべて「当たり前だと思わずに素直に徹底的に考え抜くこと」が基本になるのだと考えている。