揚輝荘 郷土史 まちづくり 第3回

「揚輝荘」の魅力と再生のビジョン
佐藤 允孝
(千種郷土史学習会)
無限に広がる「揚輝荘」の魅力
 「揚輝荘」は、松坂屋の初代社長、伊藤次郎左衛門祐民(すけたみ)氏によって、覚王山日泰寺の東南に隣接する1万坪の森を拓いて築かれた別荘です。完成時(昭和12年頃)には、広大な庭園の中に30数棟の移築・新築された各種建造物が立ち並び、覚王山の高台に威容を誇っていました。観月の茶室「峠の茶屋」、徳川家から移築した貴賓館「有芳軒(ゆうほうけん)」、大石蔵之助ゆかりの「端の寮」、500年前の民家「栗廼家(くりのや)」、八丈島の「四阿(あずまや)」等々、どれ一つをとっても建築的・歴史的な興味が尽きないものばかりで、現在の明治村にも比肩され、「普請道楽」といわれた施主の面目躍如たるものがあります。
 ここには、戦前から皇族や、政・官・財・軍の要人が往来し、社交サロンとして賑わっていました。また、祐民氏の支援により、アジアの留学生が寄宿生活を送り、国際的なコミュニティーを形成しておりました。
 ところが、1945年(昭和20)3月24日の大空襲では敷地内に15発もの爆弾が投下され、無残にもほとんどの建物が破壊されてしまいました。その夜、ここの住人たちは、トンネルに逃げ込み、危うく難を逃れましたが、翌朝、一望の焼け野原に、息をのんだということです。
 そんな災難の中でも、山荘「聴松閣(ちょうしょうかく)」、川上貞奴が住んでいた「揚輝荘座敷」、尾張徳川家から移築した和室に鈴木禎次氏設計の洋間を組み合わせた「伴華楼(ぱんがろう)」などが奇跡的に助かったのは幸運なことでした。
 その後、残された建物は、進駐軍の接収を受けたり、松坂屋の独身寮になったりして数奇な運命を辿りましたが、優雅な庭園とともに今なお、その魅力は人々の心を引きつけて止みません。困難な状況を乗り越え、ここまで保持されてきた現在の「揚輝荘」は、大正・昭和時代を生きぬいてきた証人であり、この地域の文化資産として長く保存・活用されるべきものでしょう。
 そして、ここは、ただ古い建物や庭園というだけではなく、歴史・民俗・自然・教育・国際交流・地域経済等々多角的・多元的分野でそれぞれに魅力・価値を持っている稀有な資源だと考えられます。そうした観点に立って、「揚輝荘」の魅力の一端を再発見・再構築するためのビジョンについて触れてみたいと思います。

「聴松閣」地階南窓にはめられていたガラス彫刻

1938年(昭和13)にインド人留学生ハリハラン(絵付師)が描いた聴松閣地下壁画
異国情緒あふれる聴松閣
原図は1891年(明治24)地形図(1万分の1)
を拡大。□内は現揚輝荘内のもの
 「揚輝荘」南部のランドマークは、「聴松閣」です。祐民氏が、1934年(昭和9)にインド・タイなど、仏跡の地を旅行した時のイメージをこの建物に写したといわれています。外観は山荘風、室内はチューダー様式・中国風・インド風などがミックスされ、施主の趣味、遊び心、センスがふんだんに盛り込まれており、豪華さ・重厚さには目を見張るものがあったことでしょう。しかし、加齢と改装、一部被弾によって今では痛々しささえ感じられます。
 先日、インドの女子留学生を案内したとき、戦前のインド留学生が地下ホールに残した、ヒンズーの女神の壁画や、砂岩の柱、壁にあるインド模様のレリーフやモザイクタイルに息を呑み、しばし感嘆の声が絶えませんでした。この怪しげなムードを漂わす壁画も剥離が進みつつあり、早急な修復が必要です。また、前稿で触れたトンネルについては、復元が期待できる個所は、唯一「聴松閣」の入口部分のみですが、ここを発掘することによって、施主の構築意図が解明できるかもしれません。
 「聴松閣」で再現したい一番のビジョンは、地階南のガラス窓です。ここには、カンチェンジャンガ(ヒマラヤ山脈第3の高峰、8,586m)の雪嶺がガラス彫刻で施されていたことが「揚輝荘主人遺構(1942年竹中工務店)」の写真で確認できます。昼間は南側のハイサイドガラスからの太陽光により、夜は特設照明によって、幻想的な光景が浮き出てくる仕掛けになっていました。祐民氏は、自著『戊寅年契(ほいんねんけい)』で「10月20日、ヒマラヤ雪山を見る、月絶佳」と称えています。この幽玄な世界を再現することができれば、施主の「揚輝荘・聴松閣」構築の衝動と情熱とを読み取ることができるでしょう。その他、吹抜け部分などにある木枠の間接照明や独身寮用に小割りにした1階の大食堂、2階のインド間・中国間などが蘇れば、当時のゴージャスな雰
囲気を取り戻すことができるでしょう。
 北部に目を向けると、池のほとりに、朽ち果てようとしている「三賞亭(さんしょうてい)」がひっそりと什んでいます。「揚輝荘」最初の建物として茶屋町の本家から移築されたものですが、花や紅葉に囲まれて、優雅な月見の宴や茶会を催すことができたらと、再構築の夢が広がっていきます。
植物・庭園と建物の競演
 庭園の北東部にヒトツバタゴ(別名なんじゃもんじゃの木)の大径木があります。幹周りは210cmもあり、着工以前からここに居た先住民だろうと思われます。しかし、周りには竹がはびこり、陽当りが悪く、根もだいぶ弱っているようでしたので、この3月に300本程竹を切り、明るく、さっぱりとしました。5月初旬には、雪を被ったように可憐な花を咲かせてくれるでしょう。また、竹に隠れていたコブシの大木(幹回り185cm)が突然現われ、大空いっぱいに真白な花びらをなびかせていました。
 そのすぐ北にクスノキの大木(幹周り280cm)があります。クスノキは、年に2〜3cm太るそうですので樹齢は、百数十年かと思われます。ここは、敷地の鬼門にあたり、江戸時代からこの地を守り、歴史を見つめてきた生き証人でしょう。
 そして、名古屋では他では見られない竹の奇種、リュウキュウチクが見つかり驚いています。
 これらにモミジやサクラの古木を加えた植物群とこれらの植物と建物や「亭橋(ていきょう)」との競演はすばらしく、住宅地に残された緑としても保存に努めなければなりません。
 1891年(明治24)の日本で最初の測量地図によると、この地は標高30〜40m落葉樹の森で、ため池に囲まれた谷地が入り込んでいます。敷地内には、何本もの小川が流れ込み、滝もあり、里山の風情を残していました。池は、敷地の中の新田を利用したものでしょうが、釣り舟を浮かべて遊ぶ写真に当時が偲ばれます。昔の水流を復元することは望むべくもありませんが、せめて鯉の遊べる池が取り戻せればと願っております。
 1999年(平成!1)、揚輝荘庭園を調査した澤田天瑞氏は、所見として、「京都修学院離宮の古庭園を範として、後水尾上皇が果たし得なかった庭園の一元化を見事に実現した、日本で唯一の庭園であり、……数少ない都市景観の中核として後世に引継がなければならない。伊藤家の文化的精華である揚輝荘庭園は、名古屋市民共有の文化遺産として、復元整備の上、末永く保存活用されることが望まれる」と結ばれています。

なんじゃもんじゃの大侯木が孟宗竹、淡
竹(はちく)の勢いで弱っていた。