建築教育への期待 第8回

建築家教育と市民参加の計画づくり
建築家は誰のために仕事をするのか
曽田忠宏

(愛知工業大学建築工学科教授)
建築家不在の住宅と街づくり
 先日テレビ映画でハリソン・フォード主演の『目撃者−刑事ジョン・ブック』がやっていて、ついまた見てしまった。アーミッシュ(*)の幼い男の子が、最近夫を亡くした母親に連れられて「街」に行った折、トイレで殺人を目撃してしまう。この事件の捜査に刑事ジョン・ブックが乗り出すのだが、おかしなことに、捜査妨害どころか彼の身に危険が及ぶ。どうやら警察署の上層部の絡んだ事件だと勘付いた彼は、電話の盗聴などがされないところ、すなわち電気や自転車など近代文明を拒絶して生活している(目撃者の息子と母親を祖父の暮らしている)アーミッシュの村に逃げ込んで時機を待ち、やがて居所を突き止めて乗り込んで来た上層部と対決し、家族や村人の協力を得て勝利するという筋立てである。
 ご紹介したいのは、車や銃や組織など、場合によっては人に危害を与え人々を疎外する近代文明社会と近代文明を拒否して、素朴な、今流に言うならサスティナブルな暮らし方を守っている世界を対比させて見せてくれているところである。
 もうひとつ今回のテーマに関係するシーンがある。それは村人たちが総出で建築物をつくるシーンで、男性たちはそれぞれの得意なところで力仕事をし、女性たちは細々としたものを運んだり整理したり、男性陣の食事の支度をしたりと老若男女がそれぞれ自分の持ち場で力を出し合ってつくっていく。よそ者で異端者であったジョン・ブックもこの建築事業に大工の腕をかって参加したことで、皆から居住者の一人として認められるに至るのである。
 この建築物は「住宅」と言っていたが、恐らく納屋や家畜小屋も付いているものであろう。2階建・切妻の木造で、牧草や飼料を2階に蓄えることが、映画の最終局面一人で多勢を倒してゆく伏線になつている。
 さて、ようやく本題に入るが、この建物の建て方のシーンで、建て方の掛け声を出したり合図をする人はいたような気がするのだが、「棟梁」に当たるとおぼしき人物を特定することはできなかった。まして「建築家」らしき人物は当然かもしれないが、見当たらなかった。恐らく子どもの頃から、こういう場に居て、それなりの見聞をし、成長する過程でこうしたことに参加した経験を重ねることで、このコミュニティーの人々は「つくるモノ」および「つくり方」が共有できているといってよいだろう。だから場合に応じて、プロデュースやコーディネートをする「建築家」的な役割をする人や、部材を見積もり、発注・政策を統括し役振りをする「棟梁」に当たる人など、その時その時に誰かが役割を果たすというような仕組みができ上がっているのではないかと想像する。
 アーミッシュの人々に限らず、ちょっと「昔」に目を向けてみれば、例えばローラインガルスの『大草原の小さな家』シリーズに出てくる「父さん」たちはわが家に限らず教会や学校までもつくってしまう。またわが国でも、建物全体ではないが、今でも白川村では合掌造りの大屋根の葺き替えは、村民総出(最近では全国からボランティァも参加して)の「結い」で行なっており、技術を伝承している人が音頭とりの役をするとしても、参加する全員ができ上がりの「イメージ」を共有し、それぞれ自発的に持ち場を決めて力を合わせてつくっていくという仕組みになっている。
専門家=建築家は社会貢献しているか
 サプタイトルに記した「建築家教育と市民参加の計画づくり」は、昨今「住民参加の○○」とか「市民参加で進める○○」というのが大はやりで、私もそんなことのいくつかに「参加」しているが、考えるまでもなく住民ヌキの街づくりなんてあってはならない。例えば「建築家」の皆さんが個人住宅を設計する場合、住人=家族=住民ヌキに、あるいは家族との対話なしに設計を進めるなんてあり得ない話だろう。すなわち建築の設計や街づくりは、そもそも住民参加が基本原則のはずではないか。「参加」のレベルはさまざまだとしても、住民・市民の参加のない計画や設計はあり得ないし、「市民参加の計画づくり」ということ自体、重畳語法であると言いたい。したがって、本来あるぺき「建築教育」を行なっていれば、改めて「市民参加のための建築教育」など必要ないはずだ。
 しかし現実的には、「市民参加の計画づくり」「住民参加の設計」と言わざるを得ないのはなぜか。ひと(ホモサピエンス)が、神の如き全き存在であるならば、それぞれが、それぞれの思いで自らの「すまい」をつくり、他の人々の妨げにならず、さらに賛美されるような営みがそれぞれできるだろう。逆に神の命ずるがままに(DNAに書き込まれた暗号どうりに)悩むことになく生まれ、生き、死んでゆく人間以外の動物にとって、例えば巣づくりでさえもDNAに書き込まれたプログラムのひとつに過ぎず、美しいだの機能的だの「住民参加」だのと思い悩むことはない。
 残念なことに、人類の最初の祖先アダムとイブは、蛇にそそのかされて智恵の木の実を食べてしまい、楽園を追われた(キリスト教の聖書とりわけ旧約聖書は「神話」的な含蓄のある記述に満ちている)。アダムとイブの二人の息子、カインとアベルが農業の民と牧畜の民の祖先となり、やがてその子孫たちが「分業」なるものを始める。そしてパンドラが諸々の「悪」の詰まった箱の蓋を開けてしまう。智恵の木の実を食べてしまったばかりに、人は道具や火を使う技を覚え、コトバを操るようになった。自ら世界を律したい。事象の理を知りたいと欲求するようになった。家族を単位とする集団をつくり、やがて社会をつくった。そこでは能力に応じて仕事を分かち持たれ(持たされ)、権力や階級・階層が生じた。分業が進むうちに「専門家」と呼ばれる特定の才能に秀でた人たちが現れた。
 才能のことを英語で神からの贈り物という意味でギフトと呼ぶことがある。本来神は各人に公平に贈り物を下さったはずなのだが、楽園から追い払う際に試練として与えられたのか、人の才能にはバラツキがある。あるいは公平に与えられたにもかかわらず十分に花開かずに終わってしまう才能が多いのは事実だろう。
 社会を構成する人々は、それぞれが分業して互いの営みを支えあって生活し、中でも特定の分野の仕事は「専門家」に委ね任せば、社会は円滑に運営され、自分たちも幸せに暮らせると思って(あるいはそのような仕組みの中に組みまれて)ここまでやって来た。「専門家」の方も、自ら得意とする才能(あるいは仕事としての職能)を通して社会に貢献する世の中に役立っていると思ってやってきた。「建築家」もその一人である。ところがその辺がチグハグになってきたというのが「市民参加の計画づくり」が言われるようになった原因だろう。
市民参加の計画づくりは市民教育の場
 大学で「建築計画I」の最初の授業で、「建築家は建築をつくらない」と題して改めて「建築は誰がつくるか?」と学生に問うことにしている。黒板に「建築家は建築をつくらない」と書いてあるので、なかなか答えが返ってこない。やがて何人かが、大工とか職人とか工務店とか、実際に建築物をつくる(施工をする)職業ないし職人の名を挙げる。そこで上図のような建築のつくられ方の歴史段階の図を書きながら、「建築家」とは何か。「設計」とはどういう仕事か。設計は何をよりどころに行なうのか(行なわれるべきなのか)と授業を進める。釈迦に説法の誇りを覚悟の上で図を使って話を進めよう。
 Tの段階は、エピソードあるいは古きよき時代の話で、個人というより共同体の皆でつくる。Uの段階は権カ者とか金持ちが自分のためにつくらせるようになり、ここで企画とか計画・設計という役割が生まれ、施工が分離する。Vの段階はいわゆるクライアント→設計→施工という図式である。先に挙げたように個人住宅の場合はこれで説明がつく。しかしアパートや分譲マンション、あるいは行政の発注する公共施設となるとWの図式でないと説明がつかない。この場合、「設計者」=「建築家」は発注者・クライアントにのみ顔を向けているわけにはいかない。ユーザーや市民に対して倫理的に責任が生まれる。建築家教育が欠けているとすれば、ここのところだろう。ハコもの行政とよく椰楡されるが、バブルの頃、形だけ立派で使えない(使われない)施設が各地に建てられた。その反省が「市民参加の計画づくり」と言わざるを得なくなった一因だろう。
 では市民参加・住民参加でやれば万々歳かというと、ひとつ大問題がある。当の「市民」である。良い建築をつくろう、街を良い建築で埋めようというのであれば、まず、市民に「建築教育」をしなくてはならない。笠嶋氏の小論「建築教育はO歳から始まる」(本誌2002年8月号)に賛意を表すとともに、「市民参加の計画づくり」は「建築家」教育の場であると同時に「市民」教育の場のひとつであることも指摘しておきたい。
(*)戦前ドイツからペンシルバニア州・オハイオ州・ニューヨーク州、ミネソタ州など全米各地に移住してきたキリスト教徒。現代文明の多くを拒否し、17世紀の欧州の貧しい農村の白給自足に近いライフスタイルを頑なに守っている。