揚輝荘 郷土史 まちづくり 第2回

「揚輝荘」三つのミステリーロマン
佐藤 允孝
(千種郷土史学習会)
大坂夏の陣
 再び揚輝荘の主・伊藤家の初代・蘭丸祐道のことである。彼は織田信長の家臣であったが、主君を亡くした後に、名古屋城下・本町で始めた呉服小問物問屋(後の松坂屋)が順調に繁盛し、茶屋町(現在の丸の内二)に新店舗を開くまでになっていた。時はすでに徳川幕府の時代となり、家康は最後の詰めとして豊臣家対策に焦っていた。慶長19年(1614)大坂冬の陣が起こり、翌20年の夏の陣によって豊臣家は滅びた。
 この大坂夏の陣の直前、慶長20年(1615)2月15日、蘭丸祐道は何を思ったか突然、商いの道を捨て、後事を妻(久々利・千村氏)に托して大坂豊臣方に就くべく旅立ってしまった。“なぜこの期に及んで"の疑問についてはミステリーに満ちている。伊藤家の伝記には、「戦国武士の血が脈打った」「義憤鎮めがたく」などとあるが、“`50歳をとうに越えているし、商売は成功しているのに”“なぜ豊臣方なのか”等々疑問が多い。祐道は家康の豊臣方に対する仕打ち(方広寺の鐘銘事件、内堀埋立て問題など)や信長の孫・織田秀信の高野山追放などには不満を覚えていたであろうが、豊臣家に対して、さほどの恩義があったわけでもない。名古屋の城下を出た祐道は、思い出深い清洲に立ち寄り、津島・佐屋からの渡しで桑名へ出て、伊賀越えで奈良を経て、河内へ入ったものと思われる。大坂に着くと、後藤又兵衛基次の陣を訪ねた。二人は、旧知の仲だったとの説もあるが詳らかではない。
 大和から河内へ出る道は、ほぼ一つ、屏風を立てたような北の生駒山地と南の金剛山地を割って流れる大和川沿いの奈良街道である。これによって河内の国分へ抜けると、眼前で迎えるように立っているのが高さ100mほどの小松山(現・玉手山)である。又兵衛は、「敵は必ずここを通る。この隘路では大軍は細長く伸びざるを得ない。それを小松山から駆け下りて入れ替わり攻めたてる。総数三分の一にも満たない兵力の大坂方が勝つ見込みはこれしかない」と、軍議の席で繰り返し説いた。祐道も奈良周辺に集結する徳川方の大部隊を偵察してきており、勝敗の帰趨を決する戦場は、ここ以外にはないと考えていた。戦局に対する見通しの一致、これが二人を結びつけたのかもしれない。
 慶長20年(1615)5月5日、徳川軍主力部隊3万4千が国分越えで河内へ向かった。又兵衛たちの読みは当たった。翌早朝、戦いの火蓋は切られた。不運にも濃霧により合流するはずであった薄田兼相(岩見重太郎)や真田幸村などの隊は到着が遅れ、又兵衛隊はわずか2千8百で戦わざるを得なかった。両軍激しくぶつかり合ったが、数の違いは如何ともしがたく、又兵衛は銃弾に胸板を打ち抜かれ弊れた。それを見届けた祐道は、生駒山の西、東高野街道を北へと駆けた。三里先は、父祐広が討死にした若江の地である。その向こうの星田(寝屋川)には家康が本陣を構えている。しかし、祐道がどこまで行き着いたかは判っていない。その霊は小松山(玉手山)の安福寺にある「小松山戦死者の碑」に眠る。
 道の動機としては、“信長への思慕と敬愛の念”が考えられよう。父子二代にわたって受けた恩顧と重用への感謝、信長の政治・軍事や経済・商業に関する斬新な目と行動カヘの尊敬の念を抱き続けた。今は商人の道を選んだが、それも主君の近世感覚の影響であった。「信長様に仕えていた時代は良かった」。時代の趨勢は、徳川幕藩体制に定まりつつあった。しかし、それは「お屋形様が考えていたものとは何かが違う」。信長の33回忌を終えた今も、漠然とした不安、やり場のない欝憤にさいなまれていた。「世の中これでいいのか」「もう一度お屋形様に会いたい」。信長にはそうした思いを喚起させる強烈な魅力・カリスマ性があった。勝ち負けや損得や生死の問題ではない、“何かを訴えたい、叫びたい、もどかしくてじっとしておられない"こうした衝動が、祐道を駆り立てたのであろうか。と考えてみても、なお、ミステリーの霧は晴れてこない。しかし、だからこそ、そこに永遠の戦国ロマンを追い続けることができるのかもしれない。

玉手山(大阪府柏原市)中腹にある
「大坂夏の陣」の碑。
周辺には、両軍戦死者の碑が多い。

安福寺近くにある玉手山公園にある
「後藤又兵衛」の碑(今東光書)
揚輝荘のトンネル
 揚輝荘の敷地内に地下トンネルが残されています。何の目的で造られたかの記録はなく、ミステリーのままです。総延長約170m、幅1.8m、30数mのレベルで水平に掘られており、主要部分は鉄筋コンクリート製で、南の聴松閣・北の有芳軒・東の衆善寮(愛知舎)付近を丁字形に結んでおり、聴松閣の地下入口からは下り階段になり、両側には壁画が残っているということです。聴松閣は昭和12年(1937)竣工で、トンネルもこの頃完成していると考えられますが、揚輝荘には、皇族・政財官軍の要人の往来が多く、日中戦争も始まっており、緊急避難の目的があったのかもしれません。
 揚輝荘庭園については、澤田天端博士が古くから調査・研究されていますが、ここは修学院離宮の造園コンセプトを擬しており、上の茶屋、中の茶屋、下の茶屋の三つのブロックで構成され、観月を主目的とした池泉回遊式庭園であると言われていります。試みに、揚輝荘全体図にトンネルの平面図を乗せてみると、各茶屋のメインの建物(峠の茶屋、聴松閣、有芳軒)を見事につないでいます。施主・祐民氏は、修学院離宮を超える趣向を考えていたのでしょうか。峠の茶屋近く(標高が高いので出入り口はない)の換気口は、月光を取り入れる仕掛けだったのかもしれません。
 トンネルの目的は避難用なのか、優雅な遊び心なのか、ただのバイパスなのか、雇用促進事業ではなかったかとの見方まであり、今になっては知る由もありませんが、想像を駆り立てることによってロマンの世界がどんどんと広がっていきます。

C完成当時の「揚輝荘」地図とトンネル(黒太線)の位置。(地図は昭和15年の実測図より)
「暮雪庵」の傷板
幽かに「暮雪」と読める茶席扁額の板。
不自然な穴が三カ所見られる
 揚輝荘には大正5年(1916)に建前、昭和5年(1930)に茶屋町本家から移築された台目三畳の茶室「暮雪庵」があります。この茶室の東側板壁に奇妙な傷が無数についているのに気がつきます。のみや手斧などの大工道具によるものでないことは、ベテランの宮大工さんが証言しています。釘穴や虫食いでもありません。矢尻の跡か槍・刀傷ではないかという人がいます。とすると、この木材は戦国時代の城か砦の廃材だったのかもしれません。廊下の天井のど真ん中や、「暮雪」と書かれた扁額にまでこの傷板が使われており、意識的に目立たせようとしていることは確かです。京都の血天井のような意味があるのか?それとも、わび・さびの景色なのか?このミステリーも解明は難しいでしょう。
 「暮雪庵」は、近々、土岐市へ移築されることになりました。伊藤家の先祖ゆかりの地、そして戦国時代の要衝「久々利」へは山一つのところです。茶室の古材が里帰りしたくなったのでは、などという幻想にかられていると、また、戦国ロマンに引き込まれていきます。