音 楽 と 空 間 @

  リベスキントの音楽的思考と空間設計


水野みか子
(作曲家・名古屋市立大学芸術工学研究科助教授)
 今回より6回の予定で、音楽と建築の関わりをテーマとした連載を書くこととなった。音楽と建築は数比的一致や空間体験の思索などを通して、古くからさまざまにその姉妹関係を云々されてきた。第1回目は、両者の関わりをより具体的なレベルで見ることのできる例として、ダニエル・リベスキントの音楽的思考と設計について考えてみたい。
複数のラインと標題音楽
 リベスキントは、ベルリン・ユダヤ博物館の計画案において、公式名「ユダヤ博物館部門を含むベルリン拡張計画」以外に、<Between the Lines>という名称を与えている。〈Lines>の第一は、直線だが切れ切れの線、第二は、曲がりくねっているが無限へと続く線であることが明かされているが(注1)、「両者は確かな対話をくり返しながら建築的、標題音楽的に展開する」(注2)とリベスキント自身も言うように、構成や機構における二つの志向性は確実な関わりを持つものの決定的な交わりを持つことはない。
 <標題音楽>は、19世紀後半ヨーロッパのロマン主義音楽におけるキー概念のひとつであり、一般的には、器楽音楽において形式ではなく内容を主張する作曲家や評論家が標榜したものであり、形式そのものを美とする<絶対音楽>の対概念と考えられていた。<標題音楽>において、形式と内容は表裏一体となっていて決して切り離すことはできないが、両者が交わる点も発見しがたいのである。
 <標題音楽>という言い回しをはじめ、互いに相手なくしては存在することすらできない深い関係にありながらしかも平行関係でもなく交じり合うこともない複数のラインは、ユダヤ博物館以外の場合でも、リベスキントにあってしばしば音楽的比喩、あるいは音楽的事象への彼一流の直観によって語られ、描かれる。
音楽の調の名前で人の動きを表現
 たとえば、ブレーメンのフィルハーモニア・ホール<Musicon Bremen>のためのサイト・プランでは、市民公園のグリーンゾーン・アクセントや駅やシティホールやパークホテルなどのさまざまな都市機能に基づく人の動きを幾つかの直線で表し、そこに音楽の調の名前が書かれている。「田園風キー」と名付けられたハ短調、多彩さを持つキーとしての嬰へ長調、などである。ハ短調と嬰へ長調は、主和音の位置のみから言えばもっとも遠隔の調にあたり、この二つの主和音に共通の音はない。時計の針に置き換えれば、ハ音と嬰へ音は「0(ゼロ)」と「6」であり、もっとも遠い。そしてリベスキントのサイト・プランでは、両者の間を仲介すべき角度に「未完結のキー」と名付けられた二長調の軸が差し挟まれている。
 <MusiconBremen>サイト・プランには、五線紙に書かれた音楽断片(音符)も見ることができる。ひとつは、追いかけ合う多声部による対位的楽句の断片であり、もうひとつは、二分音符と四分音符が垂直に結ばれた、弦楽器に特有の和音が、複数個連なって音価の区別なくひとまとめに束ねられた連符的記譜である。本来なら、拍子という時間区分やリズムという認識パターンによってリアルタイムの時間軸上に分配されるべき数個の音高が、時間軸上の序列を越えてグループ化されている。この状態は、時問の中に存在するところの<鳴り響く音楽>よりも、むしろ、音高連関という抽象的な音程関係こそが建築空間とパラレルに考えられていたことを示唆する。

ブレーメンのフィルハーモニア・ホール<Musicon Bremen>のためのサイト・プラン
『モーゼとアロン』の未完成聞題
 平行でもなく交じり合うこともない対立物がバランスをとって共存する様子、時問軸上で鳴り響いて移行していく音楽ではなく抽象的音程関係によるピッチの分類、という2点は、リベスキントにおける音楽と設計の、幾何学的な面における共通点であるが、ベルリン・ユダヤ博物館の場合には、もうひとつ、建築と音楽の第三の、はずすことのできない交差がある。それは、「未完」とその意味付けである。リベスキント自身が熱く語るように、ベルリン・ユダヤ博物館は、設計の根幹的コンセプトのひとつに、作曲家アーノルト・シェーンベルクの未完成オペラ『モーゼとアロン』とのつながりを持っているのである。『モーゼとア日ン』の未完成問題は、宗教上の対立とホロコーストという、音楽と建築の区別を捨象してしまうほどに重く包括的な20世紀的課題を背景に持っている。語るべき雄弁な言葉を持たず「唯一の永遠にして遍在する神」を信ずるモーゼは、雄弁で偶像崇拝をたたえるアロンの前にもはや力を持たず、「O Wort du Wort, das mir fehlt !? おお言葉よ、私に欠けているのはお前だ!」と叫び、オペラは幕を閉じる。モーゼがオペラの中で<歌う>のは一カ所しかなく、あとは〈Sprechstimme(抑揚を付けて語る声)>で一貫している。歌わない歌手である。
 さらに、この「未完という形式」と「言葉のない表現者」は、メロディーやハーモニーといった慣用的語彙ではなく、互いに独立した12種類の音程を均等に使う12音技法が陥った形式ジレンマの状態をも暗示している。『モーゼとアロン』は、形式構成の点での12音技法の袋小路が叫ばれる歴史的時点に生み出された。


未完成オペラ『モーゼとアロン』の第二幕の終結部
ホロコーストとvoid
 ホロコーストという悲劇の前に語るべき言葉はなく、しかも均等に布置される音程という算術的レベルでの音楽理論が結論を見出せずにいるという状況を、リベスキントは統合的に捉えた。そして、『モーゼとアロン』について、シェーンベルクが第三幕のテキストのみ残し作曲していないことを指摘して、音楽がもはや響きには結晶化しないと断言したのである。さらに、20世紀後半のイタリアの作曲家ルイジ・ノーノが残した、政治的色彩の濃い断片同様、「もはや聴くことのできない音楽」であることが20世紀音楽の運命だと説く(注3)。
 袋小路の形式や「聴くことのできない音楽」の状況が視覚化され、空間体験として提示されているのが、ベルリン・ユダヤ博物館の〈void>である。リベスキントによる<void>はテクニカルな意味でのヴォイドである前に、<Raum>あるいはプラトンの<choraコーラ>の意味のものであることを指摘したのはデリダだが(注4)、ユダヤを主題とする大建造物の中心が、不在を強調する<void>であることは、第二次世界大戦中・戦後の前衛作曲家たちがあらゆるパラメータにおいて音(音楽ではなく)を組織化しようとしたことの裏に、全体主義を前にしての個人的表現の沈黙があったことと符合する。
(注1) Daniel Libeskind : 『The Space of Encounter』 23-26頁
(注2) Daniel Libeskind 『radix-matrix』 34頁
(注3) Daniel Libeskind 『Juedisches Museum Berlin』25頁
(注4) Jacques Derrida『Response to Daniel Libeskind. In:Daniel Libeskind』radix-matrix, 110-115頁
水野みか子(みずの・みかこ)
1958年三重県生まれ。
東京大学文学部美学芸術学科卒
愛知県立芸術大学音楽部研究科卒、終了。工学博士。
作曲活動は、オーケストラ、室内楽から電子音祭、ダンスとのコラボレーションまで、さまざまな分野にわたっている。
主な作品に『管弦楽とピアノのための〈showering memory>』『管弦楽のための〈穀物の緑の波〉』『琵琶と管弦楽のための<光の扉へU>』『ソプラノとエレクトロニクスのための<dig lvox>』など多数あり、
作品は、パリ、ブールジュ、ベルリン、ケルン、ベネチア、ブタペストなどでも紹介されている。
日本交響楽振興財団作曲賞、日仏現代音楽コンクールなどに入賞、入選。著書『音祭の20世紀U』『芸術工学への誘い』他。