揚輝荘 郷土史 まちづくり 第1回

「揚輝荘」は明智光秀が築いた
佐藤 允孝
(千種郷土史学習会)

名古屋市千種区法王町2「揚輝荘」の門柱にある表札。「W」が本字(正字)である。「輝」は「W」の俗字(俗体、通体)
はじめに
「揚輝荘」内の山荘「聴松閣」。周りの紅葉に生える。往時の人々の行き交う姿が偲ばれる。
 名古屋市千種区に残る「揚輝荘」は、歴史・建築・白然・教育・文化など、いろいろな分野の、豊富な材料を内蔵しております。「郷土史」を、「先人の業績や文化・習俗の由来などを明らかにし、郷土愛を培うことを目的とする・・」(広辞苑)と考えたとき、「揚輝荘」は、「郷土史」に関する具だくさんのカンヅメとして興味が尽きません。
 「郷土史」の諸分野を「タテ糸」として、「揚輝荘」にまつわる各種素材を「ヨコ糸」にして、郷土愛や生涯学習・総合学習の発信基地としてのコミュニテイーづくり=「まちづくり」という「布」を織り上げていくことをテーマに、連載に取り組んでみたいと考えています。
 それではまず、戦国時代の「ヨコ糸」を一本織り込んでみます。
本能寺の変
 天正10年(1582)6月2日、卯の刻。織田信長は鉄砲の音で目を覚ました。海鳴りのようなときの声。京、本能寺は明智光秀軍の桔梗の旗印にひしひしと取り囲まれていた。
 明智光秀の攻め口に抜かりのあろうはずはない。「是非も無し」の一言を残し、信長は、燃え盛る本堂に消えた。49歳、その首は見つかっていない。
 このとき、伊藤蘭丸祐道(すけみち・19歳)は、信長の側近として八百石の禄を受け、清洲城に詰めていた。絶頂期にあった主君の突然の死を知り、呆然自失、なす術を知らなかった。
 その後、祐道は二君に仕えることを望まず、浪人となり、清洲城下に閑居した。時は流れ、慶長16年(1611)の秋、祐道はすでに48歳になっていた。世の流れが急速に変わる中、戦国時代は終わったと悟り、これからは商人の時代だと達観した彼は、妻と次男祐基を連れて清洲越えを決断し、名古屋の本町にささやかな呉服小問物問屋を開業した。これが後のいとう呉服店(松坂屋の前身)である。
 時代の大転換期にあったとはいえ、信長の急死がなければ、祐道は武士を捨てて商人になることは決してなかったであろう。信長に寵愛され、優秀な家臣であった彼は、ゆくゆくは城持ち大名になっていたかもしれない。言いかえれば、明智光秀が起こした本能寺の変が松坂屋創業の引き金になったということになり、春秋の筆法を借りれば、「光秀が松坂屋をつくった」となる。
 その300年後、大正7年(1918)伊藤蘭丸祐道から15代目、伊藤次郎左衛門祐民(すけたみ)が名古屋市千種区に別邸「揚輝荘」を構えた。同じ筆法に従えば、「揚輝荘は明智光秀が築いた」と言えよう。今、「揚輝荘」にたたずみ、そのルーツに思いを巡らせるとき、織田信長や戦国の人々の興亡盛衰や喜怒哀楽の面影が、まぶたに浮かんでくるのは、夢想だろうか、幻想だろうか。
若江城の戦い
 本能寺の変から遡ること9年、祐道の父、伊藤蘭丸祐広(すけひろ・父子ともに蘭丸の名を信長から授かっていた)は、信長に仕える優秀な小姓であったが、天正元年(1573)11月16口、三好義継の河内若江城を落としたときに、華々しい戦死を遂げている(35歳?)。
 「惜しい奴を殺した」と信長は嘆いたという。攻め手の大将は佐久間信盛であったが、信長の策謀により、すでに三好方の重臣が内通しており、祐広は、その手引き役として最前線で命を落としたのではないだろうか。7年後、信長は信盛を怠慢と保身のかどで追放している。「於蘭まで見殺しにしよって」との怒りが揃車をかけたのであろう。若江城趾は今、道路に分断され、その両側に石碑が残るのみである。
 翌天正2年(1574)、信長は正倉院御物の香木、蘭奢待を切り取る勅許を得た。これは、足利義政以来のただならぬことであるが、前年に亡くした伊藤蘭丸祐広の名を偲ぶ心もあったのであろう。蘭には良い香り、美しいものの意がある。
 祐広の妻は、木曾義仲の子孫に当たる美濃国可児郡久々利を領していた千村家の縁である。久々利は、信濃からの中仙道、飛騨からの益田街道の間に位置し、濃尾平野に通じる軍事的要衝の地であるとともに、木材の生産拠点でもある。千村氏をはじめとする木曾衆を味方につけることは、軍事戦略的に絶大な効果があった。
 信長がもっとも恐れていた敵は、最強騎馬軍団を率いる甲斐、信濃の武田信玄である。永禄、元亀のこの頃、木曾福島の木曾義昌や久々利の干村直政は、その信玄に属していた。そこへ信長が打ち込もうとした楔の一つが、この地の縁につながる伊藤祐広や、森蘭丸などの人材登用である(「信長公記」の本能寺戦死者に久々利亀の名が見られるのもその内か)。蘭丸祐広は、パイプ役・調整役として大いに働き、武田の美濃・尾張への進出を阻み、祐広亡き後も、長篠合戦の大勝利、木曾義昌の信長への離反、武田勝頼の滅亡へとつながっていった。「祐広に見せてやりたかった」。しかし、武田が滅んだ3ヵ月後、本能寺の変は起こった。
 祐広が信長から任命されたもう一つの任務は、「商人司」であった。信長は、永禄、元亀の頃から、楽市令・関所撤廃令・撰銭令・地場産業の保護・道路や橋の整備など中世の遺物をつぎつぎと変革させ、経済・流通の面でも近世への条件を整えようとしていた。「商人司」は、領内の流通支配を行なうために、武力を持って商人の統制・保護を行なう役割を担っていた。この地位が尾張において各時代の伊藤家に引き継がれ、後のいとう松坂屋に発展していったという。信長の経済政策が伊藤祐広、祐道から始まり、400年を通じて結実していったものである。

東大阪市若江南町2にある、若江城趾の石碑。碑文では、郷土愛的立場からか、信長・秀吉は、加害者・破壊者的な扱いになっている。
佐藤允孝(さとう・よしたか)
1938年 愛知県生まれ。
1961年 早稲田大学第一商学部卒業
      鰹シ坂屋入社。
1998年 鰹シ坂屋定年退職
2002年 学芸員資格取得(愛知淑徳大学)
現在、千種郷土史学習会、揚輝荘の会に属すほか、城山・覚王山魅カアップ事業実行委員会、生涯学習研究会なごや、中京日本香港協会に所属している。趣味は史跡めぐり。
参考:『クロニック戦国全史」講談社刊