ブリッジ・ビルダー ジョン・ローブリングー家とブルックリン吊橋編 第6回

群集の感激を呼んだスピーチと松平忠厚侯
田村伴次
(中日本建設コンサルタント褐レ問)
 第5話では、ブルックリン吊橋の完成と、その直後の群集のローブリング夫妻に対する「感謝のパレード」の話で締めくくりました。
 最終回では、このパレードのきっかけとなるアメリカ国会議員エイブラム・ヒュウイットの竣工式でのあいさつを紹介したいと思います。このあいさつについては2001年3月刊行の『世界の橋」にも出ておりますが、“文が流麗"であることから、この文は『NEWYORKブルックリンの橋」(川田忠樹著科学書刊1994年)にも掲載されており、以下に引用します。なお著者の川田氏からは引用について快諾を得ております.
言葉の重みある竣エスピーチ
 「悠久の時を流れる大河の上に、大空に力強くそびえたつ2基の塔と、その間に美しい弧を描くケーブル…この素晴らしい構造物を目のあたりにして、私たちは今、なんと人類のなせるわざの偉人なることよ、と感嘆の念を禁じえません。
 人類は、大胆にもこの難工事に取り組み、技術者たちは、かって史上に類のない偉業を見事成功に導いたのです。…だがこの橋は、単に科学技術上の粋を集めただけで完成したものではありません。それと同時に、人間の精神力の偉大さをポす記念碑であることを忘れるわけにはいかないのです。
 決して科学的な知識や、技術的な熟練のみでは、この橋は成功しなかったでしょう。そこに弛まざる努力と、不屈の勇気が裏打ちされて、初めて成功が約束されたのです。
 暑きにつけ、寒きにつけ、肉体的な苦労も並大抵なものではなかったでありましょう。その上常に冷酷な死と直面しつつ、工事は進められねばならなかったのです。まさに、死はこの橋の生みの親を犠牲とし、その完成をもたらせた偉大なる技術者をも、病の床で脅かし続けてきたのです。文字どおり聖者のごとき信念と、英雄のみが持ちうる勇気とによって、この偉業は達成されたのです。
 われわれはここに、この成功をもたらすために身命を賭した、幾多の技術者の名を讃えたいと思います。こうした人々の、尊い白己犠牲と献身の上に、初めて今日の日が迎えられたのであり、それは決して、僥倖や偶然の所産ではありえなかったのです。
 その人の名は、まずこの橋の生みの親で、かつ設計者でもあるジョン・オーギュスト・ローブリング氏であり、またこの父から才能と、知識と技術を受け継いで、終始橋の建設の指揮をとり続けた、ワシントン・オーギュスタス・ローブリング氏であります。
 この長い試練の期間を、しかも誹謗と中傷の渦巻く中で、この偉大なる魂の持ち主は病の床にあり、常に死の影に脅かされながら、せめて工事の完成するまで生きながらえんものと、ただそれのみを祈り続けてきたのであります。
 私はあえて偉人なる魂と言いました…。なんとなれば、物心ともに恵まれて、十二分に人生を謳歌しうる青春の日に、彼は自らの義務として親の遺志を継ぎ、当然のことのように苦難の道を選んでいるからです。
 他にも挙げるべき名は多々あります。潜函の底深く、また目も眩むばかりの空中ケーブルの上において、勇気ある態度で着々と工事を進めてきた幾多の人々。彼らは嵐の中でも、事故による混乱の中でも、危険に臆することなく、沈着に作業を続けた英雄たちであります。
 だが、私たちにとって決して忘れることができない、いま一つの名前があります。
 それは恐らく公式の記録の中には、どこにもとどめられることのないものかもしれません。しかし、今後この吊橋について語られるときには、必ずやともに人々が思い浮かべるに違いない、一人の女性の名前です。
 工事上の多くのことがらが、この人の総明な頭脳の助けを借りて、またその繊細な手先を介して、忠実に現場の技術者のもとへと伝えられました。したがってこの橋は、一人の女性の愛と献身による不滅の金字塔であるといっても、決して言い過ぎではないのです。
 その人の名はエミリー・ワーレン・ローブリング夫人。その名はもっとも美しい夫婦愛の物語として、この偉大なる建設工事とともに、その後も永遠に語り継がれてゆくことでありましょう」。
ブルックリンの橋詰に3人の像
ラトガース大学の日本人留学生。後列左から3人目が忠厚候
出典:『黄金のくさび』(飯沼信子著 郷土出版社 1996年)
 以上がアメリカ国会議員エイブラム・ヒュウイットのスピーチであります。このようなことを反映して、ブルックリン吊橋のブルックリン側の橋詰には、ジョン、ワシントン、エミリーの3人の像が鋼板によりつくられて、この橋を守るように建てられております。
 蛇足ではありますが、ワシントンー家について後日談を付け加えるとすれば、ワシントンは1926年に享年89歳で亡くなっています。エミリー夫人は1903年2月28日に60歳で亡くなっています。エミリー夫人はワシントンを献身的に支え、『ザ・ローブリング』によりますとFaithful wifeと書かれています。妻亡き後ワシントンは」人で大変な時を過ごしますが、1908年4月にコルネリアと二度目の結婚をします。書物によれば「Long retirement but no idle days」と記されているように、ワシントンは明敏な頭脳を生かして父ジョンの創業したワイヤー会社にも適切な助言をして、体は不白由でも創造的な人生を生きました。一人息子のその名も祖父と同じジョン・オーギュスタス・ローブリングは、長じて土木工学を修め、1889年に結婚し3人の子どもを授かっています。
世紀の大工事に日本人が貢献
 さて最後に、この吊橋の建設にかかわった日本人の話をしたいと思います。信州の北に上田市というところがあります。ここに上田城という城がありました。そう、あの戦国の名将「真田幸村」の居城です。真田幸村亡き後仙石氏が入城し、その後三河の松平家が入城します。そして明治維新を迎えますが、最後の上田城主が松平忠礼侯であり、その弟君がここで話題に挙げる松平忠厚候です。
 1851年(嘉永4)8月14日に江戸で生まれた忠厚候は、長じて当時の世情からアメリカに留学を志し、1872年(明治5)に渡米してニュージャージー州ラトガース大学付属グラマースクールにて英語を学びます。
 1875年にラトガース大学に入学し理科の課程を修めます。写真−1に当時の写真を示しますが、当時ラトガース大学にはたくさんの日本人が留学をしていたようです。
 忠厚候は、大学を卒業後1879年にニューヨークの建設会社ニューヨーク・ローン・インプルーブメント社に入社しています。彼は幼少より利発でしたが、入社後に実力を悟りウースター大学に再度聴講生として在籍し勉学に励みます。そして1879年8月6日、27歳のときにカリー・サンプソン(19歳)と結婚します。その後マンハッタン高架鉄道会社に土木技師として就職します。この会社はブルックリン吊橋架設プロジェクトにも参加しており、忠厚候はこの吊橋の第8アベニューの延長と、第1アベニューと第2アベニュー線のイースト・サイドまでの設計を担当しています。
 このようにして世紀の大工事に日本人が参画していることは、「土木の社会」に身を置く者として真に誇りに思います。その後の忠厚候のことを述べれば、そのころの大工事である鉄道工事に従事し、とくに測量において「非常に新しい工夫」を凝らし、アメリカで著名な測量技師となります。カリーとの間に太郎、欽次郎の二男をなし、1888年1月24日コロラド州デンバーで37歳の若さで死去しています。
 忠厚候の子孫は、アメリカ社会に根を置き、曾孫(ゲリー・デント)が活躍しています。写真−2は、忠厚候没後100周年を記念してデンバー建立された記念碑です。松平家の家紋「五三の桐」が鮮やかです。
 以上で第6話を終わりとします。ジョン・ローブリング」家が成し遂げたフォース橋、およびブルックリン吊橋は今でも活躍していますが、この二橋に私の生まれ故郷出身の信州人が色濃くかかわっていることを皆さまに伝えたく、連載「ブリッジ・ビルダー」を終了します。

松平忠厚侯記念碑
出展:「黄金のくさび」