石は語る   第6回
名古屋の地質と地形からみた濃尾平野の生い立ち
足立守
(名古屋大学博物館長)
3本の断層と3本の川
 晴れた日に名古屋駅前のツインタワービルから西を望むと、濃尾平野の西に壁のように連なる養老山地が目に入ります。山地と平野の境界には、垂直方向のズレが2,000m以上もある活断層の養老断層が存在します(図1)。濃尾平野は西を養老断層、東を猿投山北断層、南を天白川河口断層によって区切られています。これら3本の断層の活動によって地形的に落ち込んだ所に、木曽・長良・揖斐のいわゆる木曽三川によって中部山岳地帯から運ばれてきた大量の土砂が、100万年以上の長い時間をかけて堆積して濃尾平野はできました。
 養老断層の垂直落差に比べて、猿投山北断層の垂直落差は小さく(100m以下)、この違いによって、濃尾平野の土台全体(中生代の地層や花崗岩)が西へ傾いています(図2)。養老断層のたび重なる活動によって、養老山地は上昇を続け、逆に濃尾平野の西部は沈降を繰り返しました。その結果、木曽川や長良川は養老断層の方へ流れを変え、本来は離れていた木曽川・長良川・揖斐川という3本の大きな川が、現在では濃尾平野の西部に集中することになりました(図1)。広い流域面積をもつ大きな川が3本も集まっているのは、日本全国で濃尾平野だけの大きな特徴です。
木曽川は名古屋中心部を南北に流れていた
 今から約1〜2万年前、当時の木曽川は愛知県の犬山付近から南下し、小牧→春日井→名古屋市中心部を通り伊勢湾へ流れ込んでいました。濃尾平野を南北に流れていた当時の木曽川(“古木曽川”)の痕跡は、川が熱田台地(図1)を浸食した地形と木曽川水系に特徴的な石(放散虫チャートなど)を含む礫層として残っています。“古木曽川”によって削られて低くなった部分は、大曽根凹地(図1)と呼ばれ、東西約1.5km、南北約3kmにわたって追跡できます。
 人間活動によって、大曽根凹地の両端の浸食崖は今ではなだらかになっています。それでも、栄付近の錦通では愛知芸術文化センターから東海テレビの方へ下りはじめる所に凹地の西端が残っています。もう少し北では、名古屋市役所から約1km東の金城学園から敷島パンのあたりで東へ低くなる所になります。
 一方、“古木曽川"の東端は若宮大通(100m道路)の吹上インター付近で道路が西へ低くなる所になります。その少し北の飯田街道では、「古井の坂」付近で道が北西へ下る所がその名残です。
名古屋城の建設サイトは加藤清正が決定?
 『尾張名古屋は城でもつ』とうたわれた名古屋城は、関ヶ原の戦いの後、徳川家康が豊臣家ゆかりの西国の大名に命じて1610年に建造されました。大阪城の豊臣秀頼に“にらみ"をきかすとともに、天下普請(てんかぶしん)という大工事によって西国大名の財力をそぐことが大きな目的でした。
 名古屋城のグランドデザインを誰が考えたかはよく知りませんが、地形的な特徴を考慮した建設サイトの選定には大阪城との類似点が多くみられます。天下普請に参加させられた西国大名の1人である加藤清正は、大阪城造営の経験があり、かつ名古屋生まれで、どこの地盤がよく、どこに湧き水があり、どこが浸水しやすいかなどを熟知していたので、おそらく清正が全体計画を立案したと思われます。
しっかりした地盤の熱田台地
 名古屋城は熱田台地(図1)と呼ばれる名古屋の中心部を南北に延びる台地の西北の角に建てられました。約5〜15万年前にできた熱田台地は、周辺(北や西)よりも6〜10m高く、名古屋の中心部ではもっともしっかりした地盤となっています。台地が約5〜15万年前にできたことは、熱田層の中部に含まれる御岳火山に由来する約8万年前の軽石からわかっています。熱田台地という名前は台地の南端に建っている熱田神宮に由来しますが、古出来町一今池一御器所一笠寺観音に至る地域も熱田台地の一部です。
 築城に際して、石や材木などの建築資材を運搬するために熱田台地のすぐ西側の低地に堀川が掘削されました。江戸時代、熱田神宮の南には浅い海が広がっていたので、遠方から堀川経由で多くの物資が運ばれてきました。その代表格が名古屋城の石垣のなかで最大の清正石という御影石で、瀬戸内海の石切場からイカダで運ばれてきたものです。堀川が熱田台地のすぐ西にあることは、名古屋中心部の栄から名古屋駅の方に向かって、堀川にかかる納屋橋や伝馬橋を越えると標高が数m低くなることからよくわかります。
 熱田台地の北の端でも標高が急に低くなることは、栄から大津通を北へ向かうと市役所の先の国立名古屋病院の横で急な下り坂(高低差:約10m)になることで納得できます。今でも急な下り坂を残す熱田台地の北端は、昔はもっと急な崖だったと思われます。熱田層下部の粘土層は水を透しにくく、上部の砂層は水を透しやすいので、その境界部から各所で湧き水が出ていたと思われます。名古屋城の少し東で熱田台地の北端にあたる「清水口」という地名は、台地の北の崖から出ていた湧き水に由来するのでしょう。

図1 濃尾平野の地形概念図(1/5万地質図幅「名古屋北部」、1984より;O=大曽根凹地)
重カの値から地下構造を探る
 濃尾平野の地下構造は、故・桑原徹名城大学教授による地下水や温泉ボーリング井戸の掘削記録の詳細な解析から明らかにされました。しかし、大多数の井戸の掘削深度は200mよりも浅いため、それよりも深い所にどんな石があり、それがどんな構造をしているかは、1,000mを超える深いボーリングを100本近く掘削しないとわかりません。これには莫大なお金と時問がかかります。
 こうした高価なボーリングをしなくても、稠密(ちゅうみつ)な重力測定調査によって、地下深くの構造を推定することができます。重力の値は世界中どこでも一定ではなく、地下にある石の種類(比重)によって少しずつ違います。たとえば、地下に比重の大きな石がたくさんあると重力計のバネが強く引っ張られるので重力の値は大きくなり、逆に水分を多く含む軟弱な堆積物や割れ目の多く入った石が地下にあると重力の値は小さくなります。バネ秤(ばかり)の原理を利用した重力計を使って多数の地点で精密な重力測定をすると、広域的な地下構造がわかります。
重カ調査でわかった名古屋市街地の地下構造
 名古屋大学を中心とする西南日本重力研究グループによる最新の重カデータベースに、温泉ボーリング資料を加味して名古屋市街地の地下構造を解析してみると、ちょうど名古屋駅付近を通り、枇杷島から熱田神宮西方にかけて北北西に約8km連続する顕著な重力異常の急変帯が存在することがわかりました。また、この重力異常急変帯(枇杷島一熱田線あるいは枇杷島一熱田断層)を養老断層(垂直ズレが約2,000m)の重力異常急変帯と比べてみると、急変帯の地下では硬い岩盤が垂直方向に500m程ずれている可能性が高いことがわかってきました(図2)。
 約500mの岩盤のズレは枇杷島一熱田断層によるものですが、これが活断層かどうかはまだわかりません。しかし、活断層であってもそうでなくても、硬い岩盤と軟らかい地層が地下で接していれ
ば、枇杷島一熱田断層の西側に厚く存在する固結度の低い堆積層の分布地域では、大地震の際に地震波が増幅され大きな地震動災害の発生が想定されます。こうした名古屋中心部の地下構造の特徴を考慮に入れた災害対策を早急に検討する必要があると思います。

図2 濃尾平野の東西地下断面図(桑原、1968)を修正加筆。図中央の点線の断層が枇杷島−熱田断層