ブリッジ・ビルダー 第5回
ジョン・ローブリングー家とブルックリン吊橋編
父、息子、妻に受け継がれた世紀の大工事
田村伴次
(中日本建設コンサルタント褐レ問)
 第4話では、ドイツからアメリカに移民したローブリングー家について話を進めてきました。そして家長ジョン・ローブリングは水路橋で成功を収めながら吊橋を建設する機会を待ち、「モノガンヒーラ橋」でついに吊橋道路橋の設計施工に成功するという話を紹介いたしました。
 その後ジョンはあの有名なナイアガラ河で吊橋を成功させ、さらにオハイオ河を渡る当時世界一の吊橋(スパン321m)をシンシナティとコヴィントンとの間に架設し、名声を高めるのです。
アメリカ初の鋼・補剛吊橋
 さて、2001年9月11日マンハッタンで起こった「同時多発テロ」は想像を絶する物質的被害と、同時に心理的にも深刻な被害と不安を全世界にもたらしました。8年前ブルックリン吊橋を見た感慨をいまだ色濃く残す」方、バッテリーパークから見た、あの偉大な世界貿易センタービルが跡形もなく、なくなったとは、到底信じられません。
 マンハッタン島を海側から見ますと、左側の河川がハドソンリバー、右側の河川がイーストリバーです。このイーストリバーの第一橋梁、すなわち一番海側の橋梁が「ブルックリン吊橋」です。ここから上流に向かってマンハッタン橋、ウィリアムズバーグ橋、クィーンズボロ橋、ヘルゲート橋と続きます。
 アメリカは、1861年に南北が対立し、南北戦争が勃発します。ローブリング家の長男ワシントンは北軍に勇躍志願し参戦します。この戦いでのローブリングの上官は、ワーレン将軍といい勇猛で知られていました。いま、南北戦争の激戦地である“ゲティスバーグ"は、緑濃い田舎のたたずまいの中にひっそりと眠っているようですが、ワーレン将軍の像が建立されています。
 一方南部には南軍の将軍の像も残されており、写真1にその「浮き彫り」を示します。勇将リー将軍、南軍総監ジェファーソン・デービス、トーマス・ジャクソン将軍の3人の将軍が浮き彫りにされています。この南北戦争の勃発はリンカーン大統領の奴隷解放がひとつの引き金となりますが、南部は奴隷を使用しながら綿業などで大富豪を輩出していました。綿業の大富豪のたたずまいを写真2に示します。
 さしもの南北戦争も1865年に北軍の勝利のうちに終結を見、ワシントン・ローブリングは上官の妹であるエミリー・ワーレンと結ばれます。
 南北戦争も終結し、アメリカの時代の先駆けを象徴するブルックリン橋の架設の機運が高まりました。まずブルックリン市議会において動議が図られ、ついでニューヨーク州議会で計画案が通過され、「架設公社」が設立されるのです。
 架設公社の初代技師長は、当代随一の橋梁技術者であったジョン・ローブリングその人でありました。ジョンは自分の後を継いで橋梁技術者にするべく息子ワシントンに土木工学の教育を授けますが、技師長就任後直ちにワシントンを妻エミリーと一緒に、ヨーロッパヘ旅に出しています。この旅の目的は、エム・トリガーなどによって開発された「ニューマテイック・ケーソンエ法」を学ぶためです。その旅行中にワシントン夫妻は生涯唯一の子(男の子)を、父の誕生地であるミュールハウゼン(ドイツ)で授かっています。
 一方父ジョン・ローブリングは着々とブルックリン橋の設計を取りまとめ、アメリカで最初の「鋼・補剛吊橋」として設計を進めます。吊ワイヤーにも鋼を用い、また亜鉛メッキを使用することを考えました。風に強い吊橋をめざし、補剛桁はトラス構造で、しかも放射状に斜めケーブルを使用して剛度を上げ、今見ても堂々とした橋梁です。写真3に若干写真写りは悪いのですが、ブルックリン吊橋の現況写真を示します。
 さてこのようにして着々と設計をまとめていましたが、1869年6月6日、測量中の事故が災いして、ジョンは破傷風を併発し、約1ヵ月後の7月22日に享年63歳をもって一生を終わるのです。


写真1 南軍の将軍たちの浮き彫り。その面積はアメリカンフットボールの試合場より大きい


写真2 南部の富豪の屋敷
潜函病で再び工事は難局に
 ジョンを失ってブルックリン吊橋の架設工事は難局に遭遇しますが、その後継技師長は息子ワシントンをおいてほかになく、1869年8月、ワシントンは父の後を継いで新たな技師長となるのです。このようにして中央支間486mを持つ当時世界一の吊橋は着工の運びとなります。基礎工事はニューマティック・ケーソンエ法が使われましたが、当時は潜函病の知識もあまりなく大変な作業でした。
 図4に基礎工事の絵を示しますが、この工事が大規模なものであることが想像できると思います。私は今までニューマテイック・ケーソンエ法による工事を何回か見学し、潜函に潜っていますが、1気圧半くらいでも耳がジーンとして、あまり長いこと現場にいたくない気分になります。ブルックリン吊橋の基礎橋脚の基礎面は、ニューヨーク側の深い方で24m程度、圧気圧は3気圧半程度であったと想像しますが、潜函病でたくさんの方が亡くなっています。
 ワシントンも着工当時32歳の若き技師長として、人々の先頭になり潜函の中に潜り、長時間工事を指揮しました。当時ジャミネ(Jaminet)博士が発表した、潜函病はゆっくり減圧する必要があるという結論も、いまだニューヨークには届いておらず、ワシントン白身も二度の潜函病の末、とうとう1872年、命は取り留めますが、下半身麻痺と難聴となり、声を出すこともままならない病身になってしまいます。
エミリー夫人の活躍で橋が完成
 弱り果てた肉体に鞭打って、この「世紀の大工事」を指揮監督することには、おのずから限界がありました。このとき夫を助け、難しい技術的知識を吸収して内助をし続けるのがエミリー夫人でした。エミリー夫人はこの長く続く大工事の現場に、夫の代理者としてよく技術者たちに指示をし、工事を進めていくのです。
 1883年5月24日に待望のブルックリン吊橋の「渡り初め式」の運びとなります。ここに至る過程の中で、義父ジョンの死、夫ワシントンの潜函病による病気、資金の枯渇、度重なる設計変更に対する中傷、事故死に対する批判、工事の中止、技師長排斥など、ありとあらゆる苦難の連続でありました。
 しかし北軍の勇猛ワーレン将軍の妹らしく、並々ならないリーダーシップを持ってこの世紀の大工事を完成に導いたのが、エミリー夫人でした。着工以来実に13年の歳月、ローブリング親子の献身的な努力、エミリー夫人のこれまた類いまれなリーダーシップにより竣工に至ったのです。このときワシントンは46歳、本来であれば男盛りの歳でありますが、コロンビアの丘上にある白宅の病室から竣工式を眺めていました。世紀の大工事を成し遂げた技師長として一番の主賓であるべきワシントンは、傍らに彼を助けこの工事を成し遂げたエミリーと二人で、静かに式と渡り初めの人々を眺めていました。
 彼らの耳には届いていませんでしたが、華やかな式典の中で、合衆国国会議員エイブラム・ヒュウイットにより、彼らを称えるスピーチが述べられていました。このスピーチを聴いた民衆は式典が終わっても誰一人帰ることなく、予定にはなかったパレードが始まりました。このパレードの先頭にはシルクハットにフロックコートで身を固めたアーサー大統領がありました。彼らはブルックリン吊橋を背にし、ブルックリンの通りを歩きコロンビアの丘をめざしました。めざす先は技師長ワシントン・ローブリング夫妻の家です。やがて、アーサー大統領が、ワシントンの病室を訪れ、不白由な技師長の身を労りつつ、しっかりとワシントンの手を握り締めました。「万歳、万歳…・」。窓外にこだまする群衆の歓声を耳にしながら、エミリー夫人は溢れる涙を堪えかねたと伝えられています。
ここで第5話を終わりとして、最終第6話は、国会議員エイブラム・ヒュウイットのスピーチと、この吊橋の建設に関係する松平忠厚侯の話で締めくくりたいと考えています。


写真3 イーストリバー右岸側より撮ったブルックリン吊橋


図4 ブルックリン吊橋の基礎と潜函の状況
参考文献:「ザ・ローブリング1931」プリンストン大学出版刊