建築教育への期待 第5回
建築教育は0歳から始まる
笠嶋淑恵
(笠嶋建築工房主宰)
 このシリーズにおける、私への原稿依頼は「女性建築家の活躍を願って」というものだった。しかし、人口の男女比からみれば、きわめて数は少ないが、すでにさまざまなタイプの女性建築家が活躍している。固有の能力を自覚し、自ら育み、強化してきた人々は、ことさら「女流○○」と言う人々に対して、その人の内に「保守性」を嗅ぎ取っている。
意欲的に生きること、自已実現
 社会には常にいくつもの、微妙に違う意識のレベルが存在する。「建築に関する創造的な能力を自負する人であれば、男であれ女であれ『建築の進化』に貢献することを志向する。」言い換えれば、固有の能力をもって社会の進化に貢献する、そのひとなりの白己実現の道である。
「人生は3本脚の椅子の上にある。職場と家庭と地域。どれが欠けても椅子は倒れる」
(ドイツの格言)
 男も女もこの3つの社会領域のそれぞれにおいて、そのひとならではの能力を発揮し、意欲をもって主体的に生きることにこそ意義がある。多くのさまざまな局面やひとに遭遇し、困難を解決、突破しながら、社会の進化に固有の貢献をし、それを経て、認識世界が広がり、ひととして成長できる。創造的に生きる人は、社会の固定観念を鵜呑みにするようなことはしない。ひと、社会、白然に向かって、白前の観察をし、考察し、洞察して、参考知識に照らし、読み解く。白らの命題をもち、論理の実験、あるいは、習作による実験を繰り返し“白前の発見"に至る。「生き方」も「建築」も、本質的で、根源的なありようを求めるだろう。
 「建築教育」にまつわる課題として「未来世代に何を成すべきか」述べてみたい。言うまでもなく、教育は、学校だけで行なわれるわけではない。先の格言にならえば、
・家庭において、親の文化の継承
・地域社会において、学校の教師や近隣の大人が持つべき真の意味の権威から、次世代は生き方のモデルを得る
・職場において、関連業界も含めた先達や仲間、クライアントからの啓発
 とくに、建築のような、感覚系の感度や科学的観察力、認識力、多岐に渡る知識などの総合性の教育は、知識の授受だけでは不足であろう。たとえば、白然やさまざまな環境に身を置いて、そこから感覚系の反応を観察したり、たとえば、地形が醸し出す性格とひとの感覚系との応答から、その場の力を知る。社会生活の中から、時代の要請を読みとる。白己学習力とでもいうべきものも不可欠であろう、白らの、体の智、心の智、頭の智を高めること。
建築のカを感受できるひと
 想いを込めた建築を具現するには意志力が要る。それだけでは足りない。建築を設計することとは、コンセプト、全体構成から、細部のディテールまで、いくつも決定を重ねることである。一つ一つの決断を下すには、その度ごとに確信に至る葛藤、抽象思考空間での、場の性格とひとの心と体との応答の実験が重ねられている。感度の高いブラックボックスはこうしてできるだろう。メディアの発達、CADの普及によって、安直なコピーや形態の引用・寄せ集めでも、一見端正な建築はできる。固有の抽象思考空間での実験を経ない建築は、敷地のかかえる潜在的な場の力を生かしきることはできない、ひとへの想いを映し込まない。固有の建築の力を持たない、いわば二番煎じ。そのような建築が、われわれの身の周りに増えても、建築の力を感受できるひとを育てることはできないだろう。建築文化の土壌は肥えない。
 視覚に向けた建築の力は、理解されやすいが、ひとの内面に作用する感覚系に向けた建築の力を言葉で伝えることは困難だ。それは実際に各場を巡り、体感して、始めて感受できるものであるから、詩を読み解くには、小説を読み解くよりも、感度の高いこころが要る二つ一つの言葉が、その内に多くのニュアンスを含み込んでいるから。詩を紡ぎだすのには、さらに高い感度が要る。
 建築は、はたしてどの程度、深く読み解かれているだろうか。
直接体験/間接体験
 R.シュタイナーの人智学に基づく看護士養成学校では、生徒が各自、臓器模型に倣って、油粘土で臓器の形を作る教程がある。造形力を養成するわけではないだろうにと、しばらく、合点がいかず、考え続けて、やっとあることに気づいた。粘土の臓器模型が目的なのではない。自分の手で臓器の形を作るためには、臓器模型の各部をくまなく、詳細に観なければならない。つまり、臓器模型を詳細に観察し尽くすこと、すなわち目の経験、さらに、白分の手の経験がそれを強化する。さらに、各細部を作る過程では、各部がどのような機能を担うかという疑問も湧いてくるだろう。学習の次のステップヘの契機付けまでも意図されている。このことは、直接体験型学習と間接体験型学習について多くの示唆を与える。
建築文化の土壌を育む
 強く深い想いを込めた建築はひとの内面に響く、生きる意欲のような、ある力がみなぎる。このような心理作用をもたらすものにこそ、社会的存在意義があると私はとらえている。そのような建築空間や、さまざまな自然の景観がもつ場の力を体感する経験の蓄積によって、建築の力、場の力を感受できるひとが育ち、その中から建築の力を創り出せる能力をもつひとが現れるのであろう。
 0〜7歳までの幼児は、感覚が裸のままで存在しているようなありようだという。その時期に、ひとは人生においてもっとも建築空間の力を感受できる、ということになるようだ。地域拠点都市、名古屋圏に建築文化が根付くためには、地域社会にこそ、建築の力をもつ空間を創っていくことであろう。
・地域の人々を招き入れる場を持つ住居
・そのままで子育て支援センターでもある感覚世界を育む幼児教育施設
・地域の博物館、ワークショップ、小コンサートホール、農園などを持つ体の智・心の智・頭の智を育む学校
・行政サービスをそのまま見せ、市民の溜まり場でもある公共施設
 このような地域社会のひとの交わりを仕掛けるコミュニティー建築。その空間に、建築の力があるかは、…人ひとりの人生が、豊かな内面の経験になるかに、浅からぬ影響を及ぼすだろう。現役の私たちの仕事は、地域拠点都市名古屋圏に建築文化の土壌を育んでいるであろうか。

意識の焦点を持つ空間 やまさと保育園第5期改修
進化を契機付けるファンタジスタたち
 サッカーワールドカップの興奮も終わった。個人技のブラジル、組織力のドイツと言われた、異なる2強の組織の型。拮抗した局面を突破するファンタジスタたちの個人技が際立ったが、それを必ずフォローする動きを組織とっていることも見逃せない。個人技と組織力とが局面の変化に応じて、すばやく切り替わるブラジルのプレースタイル、私には進化した組織、未来共同体のありようだと思われた

癒される(内からカを得る)のは、
唯一、共同体の鏡の中に、
一人一人のカが写し出される時である
そして共同体の全体の中に、
ひとりひとりの力が、生かされるときである
行動においては、愛に生きること、
他者には、その意志を生かしめること
これが、自由な人間の根本となる姿勢である
                              R.シュタイナー
 “白分らしさの表明”個の尊厳の衝突、先の言葉は、これを乗り越える、ひとの意識の進化の方向を示唆する。これはわれわれの身近な地域社会、学校、大小の組織にもそのまま当てはまる。荒れる学校は地球規模の地域民族紛争と同根。性向の違う個人個人の能力の可能性を正しく認知するためには、教師のバラエティー不足もあるだろう。その上、現行の学校教育内容は、体(手)の智、心の智、頭の智の内でも、とくに、手の智がおろそかにされている。職人にふさわしい能力を秘める子どもは、意欲的に生きる道を、少なくとも初等公教育においては閉ざされている。一方、先見的な組織は、突出した能力を発掘し、生かし、啓発し合うシステムに変わりつつあるようだ。組織のメンバー一人ひとりが意欲的に役割を担うためには、ファンタジスタも各側面から支えるひとも意識の進化が不可欠であろう。
 いくつかの大学の建築学科で、私は設計計画の指導、いわば意識の挑発をしてきた。必ず一人から数人、抽象思考力、豊かなブラックボックスをもっているファンタジスタがいる。一方に知育偏重で教科書/マニュアルどおりに思考する学生もいる。男、女に関係はない。むしろ私は、そのひとが論理的思考の傾向が始まる前、O〜12歳頃までの体(手)と心の経験・学習の質の違いととらえている。しかし18歳ではもう遅いというわけでもない。ときに、後者でも、ファンタジスタに化けるひとがいる。進化を契機付けるファンタジスタたち、定石を突破するひとが、共同体を活気づける。生かし、啓発し、支え合う正の力の連鎖を