ブリッジ・ビルダー 第4回
ジョン・ローブリングー家とブルックリン吊橋編
吊橋のケーブルエ法はワイヤーロープ
田村伴次
(中日本建設コンサルタント褐レ問)
アメリカに夢を託して移民を決意
 成岡昌夫名古屋大学名誉教授の著書『新体系土木工学・土木資料百科』(技報堂出版)を見ますと、「アメリカの吊橋黄金時代」(19世紀後半〜20世紀前半)の良き指導者を挙げるとすれば、ジョン・ローブリング(J.Roeb1ing)、スタインマン(D.B.Steinman)、モイセイフ(L.S.Moiseiff)、アンマン(O.H.Amman)の4人であろうと記されています。
 ブリッジ・ビルダーの第4話から第6話までは、この4人の筆頭に挙げられている「ジョン・ローブリングー家とブルックリン吊橋」に関わる話を記述します。とくに第6話では、この偉大な橋梁架設に関わった上田藩主(信州)の弟君「松平忠厚公」の話を記述します。
 約8年前、吊橋の偉大な先達である、ローブリングの架橋したブルックリン橋(図1参照)を見たいと考え、ニューヨークに行きました。また、ローブリングに関わるいろいろな資料を蒐集しました。この一家の家長であるジョン・ローブリングはドイツからの移民です。1806年6月12日ドイツ中央部チューリンゲン地方のミュールハウゼンにあるたばこ屋の5番目の息子として出生しています。父の名はクリストフ・ポリカーブス・ローブリング、母の名は、フリーデリケと言います。母フリーデリケは創造的な脳に恵まれた人のようで、自分と同じような才能をもって生まれたこの5番目の、息子をこよなく愛し、当時町の子どもの教育は、さしたるものでなかったにもかかわらず、理工系では世界一と言われた「ベルリン王立高等理工科学校」(現・ベルリン大学)の土木工学に進学、ジョン・ローブリングは優秀な成績で卒業しています。
 ジョン・ローブリングは卒業後、当時のプロシア政府に就職しますが、世情や種々の問題からこの仕事に飽きたらず、「夢の大陸アメリカ」への移民を決断します。1831年5月22日ブレーメンより、帆船オーギュスト・エドワード号によりアメリカに出発します。父は困惑のうちに息子を送り出しますが、聡明な母親フリーデリケはブレーメンまで7日間の道も厭わず見送りに来ています。母は息子の大いなる想い、アメリカ大陸での成功に、同じように白分の夢も託したのです。
 1831年8月6日アメリカ・フイラデルフィアにたどり着きます。彼らは農村コロニーの創造をめざしており、ペンシルベニア州のバトラー郡のサクソンバークに7,000工一カー(2,800万u)の土地を買い求め、村づくりを始めました。この「最初の知らせ」を受けた後、母親フリーデリケは、永遠の眠りにつくのです。
さてこのようにして始められた村づくりは、順調に収穫量を増していきますが、ローブリング自身は本来農業の専門家ではなく、土木の専門家でした。この館、彼は彼と一緒に渡米した兄カールをなくしますが、一方生涯の伴侶となる妻ジョハンナ(彼女も同郷からの移民)を姿っています。また、最初の子どもワシントン(アメリカ初代大統領の名前を命名)も誕生しました。妻子や、兄カールの家族の面倒も見る必要があるローブリングは、再び土木の仕事に「生涯の夢の実現」を託し、1837年から彼は運河の測量や、建設工事に携わるようになりました。
ワイヤーロープで工業都市へと発展
図1 現況のブルックリン吊橋(出典1『世界の橋』丸善刊2001年3月発行)
 当時アメリカでは運河が最良の運搬手段として利用され、その途中の随所にインクラインが建設され、このインクラインの巻き上げに使用されるロープは、当時は麻製のロープでした。直径20cmもある麻のロープは加工がしにくく、しかも突然破損することがあり、これを見たローブリングは土木の知識を生かし、ワイヤーを使用した「強いワイヤーロープ」の製造を考えました。
 麻縄をつくる中古の機械を使用して彼は農民と一緒に試作を続け、ついに1841年「ワイヤーロ一プ製造法」として特許を取得します。このワイヤーローブはその後目覚ましく利用が広がり、彼が開拓を始めたサクソンバークは、ワイヤーロープによって、新しい産業の中心地となりました。そして彼らが始めた名もないような農村コロニーは、新しい工業の町に変身していくのでした。その後サクソンバークから交通至便なニュージャージー州のトレントンに新しい工場を建設しましたが、彼の息子ワシントンの時代には従業員8,000人を超える一大工場になるのです。
現存するワイヤーロープの吊橋
 本来土木技術者であったローブリングは、このワイヤーロープを利用して橋梁の規模を大きくできないかと考えました。ロープリングの開発した工法は、実に今日に至るまで「長径間吊橋のケーブルエ法」としてもっとも重要な役割を果たしているのです。
 その頃、フランスから帰国したチャールズ・エレットが最大スパン107mのホイーリング吊橋を完成させ、名声を獲得していました。
 このような情報を聞くにつけローブリングの胸は騒ぎ、運河工事のうちでも渓谷を渡る運河橋(水路橋)を、吊橋で架設し名声を確保していくのです。
 このようにして、水路橋でその実力が認められたロープリングに、待望の吊橋を建設する機会がやってきます。1845年オハイオ州ピッツバーグに架かる橋、「モノガンヒーラ橋」が焼却してしまいます。木造の橋を耐久性の高い橋に再建することは、すべての町の人が望んでいたことでしたが、この橋の焼却に関連してピッツバーグの町も同時に焼き尽くされ、再建が危ぶまれる状況にありました。
 この状況を目にしたローブリングは破格の値段で吊橋の建設を申し出、採用されました。旧橋が焼却してから、わずか20日後に再建に着手、旧橋の基礎を利用した8径間の吊橋は、わずか8ヵ月の工期をもって1846年2月に完成します。この橋はその後35年間使用され、1883年に増大する交通量をさばききれず、新しい橋にその席を譲るまで、当初の設計荷重にはなかった市電が走ってもびくともせず、その役目を果たすのでした。
 その設計の原点には、現存する彼が設計したブルックリン吊橋に至るまで「橋の剛性に関する彼の配慮」があるのです。
 このようにしてローブリングは本来の土木技術者としての素質を遺憾なく発揮するのでしたが、長男のワシントンにも土木技術者としての教育を受けさせました。ローブリング家は多産の家系で、サクソンバークで6人、トレントンに移ってさらに3人の子どもに恵まれていますが、1人夭折しているので8人の子どもを授かったことになります。
 長男ワシントンは、トレントン・アカデミーで教育を受けた後、レンセア高等工業学校で土木の教育を受け、1857年7月「水路橋の設計」の卒業設計により卒業します。
 ワシントンを助けブルックリン吊橋を完成させるワシントンの妻エミリー・ワーレン・ローブリングも紹介する必要がありますが、ここでは図2〜4にブルックリン吊橋に関運するローブリング家の方々を紹介するにとどめ、第4話を終わりといたします。
なお、図2〜4は、プリンストン大学出版刊の『ザ・ローブリング1931』より、春陽会会員村上秀樹さんが描写したものです。

図2 ジョン・ローブリング
(1806〜1869)

図3 ワシントン・ローブリング
(1837〜1926)

図4 エミリー・ワーレン・ローブリング
(1843〜1903)
参考文献:「ザ・ローブリング1931」プリンストン大学出版刊