建築教育への期待 第4回
協働時代の建築教育
尾関利勝
(アルパック樺n域計画建築研究所)
建築教育と私の立場
 教育を受けていた頃から30年以上経つ私にとって、教育とは、大別して次の三つの意味を持っている。
 @社会に生きる人としての生き方の検証と啓発、
 A職業を維持向上する職能開発、
 B特殊解になりがちな経験を普遍化し、誰にでもわかるように社会還元したり、次世代へ継承すること、などである。
 個人的には仕事と人を通したさまざまな出会いが学びの機会という書生的人生観を持ち、経験を社会還元しようと志すものの、これを持続し続ける精神的余裕のなさ、あるいは仕事を通して生きることへの強迫観念にとらわれがちな状況が正直なところだ。実際に自らのオフィスの内に向けたコンセプトの一つを「仕事を通して社会貢献する対価としてお金を頂戴し、勉強し続ける自主的建築・都市塾」と位置づけているが、スタッフ個々の体験からくる欲求と思想の温度差はさまざまで、思うようには進まない。
教育は時代とともに変化する
 教育は基礎から専門、さらには社会教育、職能教育など多様な過程の意味と役割を持つ。一口に言えば、教育は「社会に生きる人としての生き方を先人の知恵から学ぶこと」、同様に職能教育は「社会的存在である職業を通した生き方を伝承を通して学ぶこと」だ。そこに共通するキーワードは「社会に生きる」という目的と「先人に学ぶ」方法だ。言い換えれば温故知新に尽きる。
 教育の目的が「社会に生きるために学ぶこと」とすれば、刻々と変化する社会に対応して教育も変わらざるを得ない。そこに教育の持つ継続性の意味がある。すなわち学校だけが教育の場ではなく、職業を通した人生そのものも教育課程として位置づけられる。たとえば、開発された製品が社会に存在する時点から歴史の対象になるように、現在の経験も、速やかに普遍化され、伝承される教育内容になっていかなければならないのだろう。
 同様に企業が新人をオンザジョブで現場教育することや、大学教育でさまざまな社会連携システムを取り入れたり、社会の現場と学生のインターンシップを行なうことも、教育の継続性の必要を示す取り組みの例と言えるのではないか。
建築教育の特徴
 建築とは無形かつ絶えず変化する人間活動や社会活動を支える場を空間として形態化したシェルターである。形態化された建築は使用者や所有者の暮らし向きや精神性を形象し、地域の環境やコミュニティーと一体に町並みや景観を形成して、その風土性を物語る。その結果、建築は個々の目的と主張を超え、好むと好まざるとにかかわらず、時々の地域の文化状況を表す社会的存在になる。このことが建築の持っ社会性の大きな特徴の一つだ。
 建築の計画・設計は無形かつ変化する人と社会の活動を可能な限り実証的に予見した目標を立て、その場を依頼主や使用者にとってより合理的で快適な空間に構成して、その場に求められる精神性を形象化した形態とするためのプランとブログラムづくりの作成過程である。
 建築は計画・設計者を統括者として、施工者、生産メーカー、造園、インテリアなどさまざまな専門分野の人々とのコラボーション=協働を統合して実現される。
 その実現のために、現代で可能な技術と素材を経済的条件のもとに駆使し、法令や地域の環境、コミュニティーの暮らし向きや維持管理、町並みなどの規範に照らしてプランを検証し、委託者や地域の関係者との合意形成を経て、実現可能な生産過程としてブログラム化される。
 このような建築の持っ特徴とその取り組み方は、大筋において普遍的であると見なされるが、個別性の強い建築物の特殊性による違いに対応してこそ、個々の建築が具体的になる。経験的な普遍解を持つだけでは個別解の要請には対応できない。建築教育に必要なことは、基礎としての普遍解を確かに身にっけることと同時に、それを未経験のさまざまな場面で特殊解として活かす対応力であり、創造力でもある。このことは学校教育に留まらず、職能教育にも一貫して共通する。
先が読めない転換期の時代
 建築の計画・設計は目的とする建築物に内包される人と社会の活動の実証的予見が始まりである。その基礎は時代の流れを読むことだ。今、それがむずかしい時代の転換期になってきた。時代の転換はつねに意識されることだ。至近なところで、80年代は人口の大都市集中をはじめ、さまざまな社会指標の変化とともに、高度経済成長の頂点ともいえるバブル期を迎える中で、先進経済大国の一員となった日本のモデルが他の先進国に見あたらない時代と言われた。90年代は従来の変化に加えて、先進国に先駆けて少子化による人口減少期を迎え、バブル崩壊に端を発する経済の低迷が同時並行する日口本は、今まで以上に先が見えない、他の先進国にはモデルがないと言われている。
 このことだけでも、明治以来、西欧化を基準に近代化に遭進してきた日本が、今、近代化の尺度からパラダイム転換せざるを得ない状況にあると言える。
 たとえば人口は幕末の約3千万人から近代化=都市化と工業化で、今や4倍強の約1億3千万人となり、2007年を境に、その後100年で半減近い減少が予測されている。原因は少子化である。日本の女
性の合計特殊出生率は1.3人台にまで下がり、子どもを産むことが決して美徳ではない時代になってしまった。このことが家族や世帯構成を変え、住宅のあり方をも変えようとしている。勤労世帯に対する住宅供給を振り返ると、同潤会と住宅営団の流れを汲む日本住宅公団は都市基盤整備公団に組織改編されて住宅供給の任を解かれ、近く独立法人化する予定になっている。かつて日本の都市計画や建築計画に多大な蓄積を遺し、多数の都市計画プランナーや建築家を育てたニュータウン建設は今や、その終息期を迎え、多くは建替えや施設の維持管理、コミュニティーが遺されるだけになりそうだ。
 大都市でも人口構造の変化はさまざまな現象を見せている。典型例は学校統廃合だ。人口増大期に大量に建築された学校が、少子化と人口減少で統廃合せざるを得ない状況を迎えている。この状況を少し大上段から見ると、近代化の終焉=ポスト・モダンと言わざるを得ない。ポスト・モダンは文学が先行し、建築でも30年以上経過する。これらのジャンルが時代を予見することを特徴とすれば、今、その予見通りの社会状況になっている。
歴史に学ぶ時代の予見
 世界の人口は日本も共通する人類史上第五の増加期にあって、現在約60億、21世紀半ばに100億を超えようとする中で、先進国に先駆けて日本が減少期を迎えようとしていることに特徴がある。
 人口減少と経済停滞が並行する日本のモデルは先進国には見えないが、歴史を振り返ると類似する時代があった。18世紀の江戸だ。直前の100年で農業生産力の増大を基礎に人口は約3倍増、3.3千万人となるが、その後の200年は減少となる。度重なる改革に見られるように経済の停滞が同時的に起きていた。田中優子著『江戸の創造力』によると、当時の社会状況には現代の世情と共通する興味ある事象がいくつか見えてくる。
 人の例をあげると、エレキテルを発明し、各地の地域資源開発を品評会開催を通して仕掛けた平賀源内、和算を極めた関孝和、商人経済学を構築した石田梅厳、錦絵の贋作家からエッチングの技法で功を遂げた司馬江漢、国内初の本格的洋書訳本・解体新書を著した杉田玄白、前野良沢などだ。この時期にはこれらに限らず、その後の日本文化の基礎と言われる科学、芸術、芸能、祭などが同時期に彷彿と起きてくる。共通することは、俳諸の連を基礎とする同志的人間の絆=今流に言えばスマートバレーに見るような渦巻くベンチャーたちの情報ネットワークだ。
 俳諸の連が生まれるきっかけは、当時の情報手段である木版印刷技術の発達による出版ブームである。当時、名古屋でも「大惣」という本屋が一世を風靡した。この状況はコンピューターを媒介とするコミュニケーション・ネットワークの広がり、NPOに見る種々の主体的市民活動、若くして起業化するベンチャーたちの活躍と極めて酷似している。まさに協働の時代が今そこに来ているように思えてならない。
協働時代の建築教育への期待
 建築は社会的かっ創造的行為である。創造とは「歴史的継承発展の行為」であると、四半世紀前に市川喜久弥先生(当時同志社大学教授)からご教示いただいた。いわば弁証法的創造論だ。当時、町並み保存にかかわり、地域の生活環境改善意向と保存とのギャップに悩む私に発想の道を開く出来事だった。要約すると生きるために「のこす、変える、取り入れる」、その組み合わせが創造の原理ということだ。人を育てる教育が優れて創造的な行為だとすれば、教育は「のこす、変える、取り入れる」組み合わせと言うこともできる。