ブリッジ・ビルダー 第3回
フォース橋(鉄道橋)編
クローニンと渡辺嘉一
田村伴次
(中日本建設コンサルタント褐レ問)
『帽子屋の城』にテイ橋落橋の記述
 第三話では、フォース橋との関わりの深い二人の人物にっいて述べてみたいと思います。まず一人目のクローニン(Dr.Archba1d Joseph Cronin)は著名なイギリスの作家です。日本では三笠書房からクローニンの全集が出版されています。全22巻ですが、書名を並べてみましょう。第一巻から『帽子屋の城』『三つの愛』『大カナリア航路』『星の眺める下で』『城砦」『花を持てる女性』『天国の鍵』『孤独と純潔の歌』『青春の生き方』『スペインの庭師』『若き日の悩み』『人生の途上にて』『地の果てまで』『美の十字架』『人間社会』『ユダの樹』『純愛記』『青春以前』以上が22巻の内訳です。一題で2巻のものもありますので、以上のようになります。いずれも読後感のすがすがしい作品揃いです。
 クローニンの最初の小説『帽子屋の蜘に、フォース橋最初の設計者であるサー・トーマス・ブッフの設計で、ヴィクトリア女王ご臨席のもと開通したテイ橋が落橋いたします模様をモデルに、次のような文章が挿入されています。
 「鉄道が壊れた。鋼鉄の橋梁は小枝のごとく折れて、コンクリートは砂のごとくくずれ、橋柱は柳の枝のごとく折れ曲がった。中央部は蟻のごとく融けてしまった……。
 金属がぐいとねじれ、石材がきしりながら落ちてきた。百人ばかりの人間の名状すべからざる絶望の声が、苦悶と恐怖のいりまじった短い唐突な悲鳴と一つになって、不慮の凶事を告げる挽歌のように、おそろしい響きを彼の耳に伝えた。」
 クローニンは1896年7月19日スコットランドに生まれ、グラスゴー大学で医学を学び、医学博士として医者の道を歩みます。
 医者としての道もインド航路の船医、病院勤務、炭坑医、ロンドンの開業医など多彩な人生経験を積み、1931年に健康を害した際、筆をとった第1作が『帽子屋の城』で、これを機にベストセラー作家の道を歩み始めたのです。
 フォース橋に関わる出来事として、こんな出会いもあったということを紹介したかったのです。(図−1参照)

テイ橋の落橋状況
ヒューマンプリッジと渡辺嘉一
 つづいて二人目の渡辺嘉一は、フォース橋の構造を説明する目的で写された「ヒューマンブリッジ」の真ん中に座っている人物として知っておられるかもしれません。
 この写真によって、渡辺嘉一はフォース橋の設計にも参画したと言われていますが、彼がフォース橋の工事に研修目的で参加したのは、1886年5月であり、この頃にはすでに下部工事は終了しており、全体的な工程の中では山場を越していました。(図−2参照)
 上部工事が盛んに議論されていた1880年〜81年頃、彼はまだクローニンの出身校と同じグラスゴー大学の学生でした。
 なぜこの重要な構造を説明する写真の真ん中に、彼が座っていたのかは定かではありません。また、写真の右側がサー・ジョン・ファウラー、左側がサー・ベンジャミン・べ一カーです。二人ともフォース橋の設計により、サーの称号を得ています。この写真は、『The Life of Sir Jhon Fow1er』および『The Forth Bridge』(1890年)に収められているほか、ヨーク州の鉄道博物館にも展示されています。テイ橋の落橋のあと、フォース橋の設計はサー・トーマス・ブッフからサー・ジョン・ファウラーとサー・ベンジャミン・べ一カーに替わり、構造も吊橋からキャンチレバー・トラス構造となりますが、このキャンチレバー構造は、東洋に起源を持つと言われております。現在でも、ネパールのドートクーシ(Dudh Khosi)地方には、渓谷の両側から「片持ち梁形式」を明瞭に示す橋がたくさん使用されています。
 フォース橋が、東洋に起源を持つ橋梁ということで、渡辺嘉一が真ん中に座って、コスモポリタンな興味を添えていたのではないでしょうか。
 渡辺嘉一は、1858年(安政5年2月8日)長野県上伊那郡朝日村平出で、宇治橋瀬八の次男として出生しました。1881年(明治15)海軍機関総監横須賀造船所長渡辺折三の養子となり、1882年(明治16)工部大学校予備校土木科を首席で卒業後、ただちに工部省に入省しますが、翌年辞してグラスゴー大学に留学します。
 土木工学を専攻し、ここでも好成績を残し1886年に卒業して直ちに、当時の世界的な事業であったフォース橋の工事に参画し4年問を過ごしました。この間米国の土木事業なども見て回り、見聞を深めています。1887年12月15口には、サー・ベンジャミン・べ一カーの推薦により、英国土木学会(ICE)に入会しており、その入会書が残されています。
 帰国後は、参宮鉄道、関西ガス、東京石川造船所、京王電気軌道株式会社などの経営に参画し、1899年に博士号も取得し、土木学会の設立にも参画しています。帝国鉄道協会会長(第7代)も歴任し、産業界、学会で幅広く活躍した土木の先達であり、1932年に74歳の生涯を閉じています。
 渡辺嘉一の出生地、長野県上伊那郡朝日村は、現在上伊那郡辰野町となっています。この辰野町に宇治橋家のことを問い合わせてみると、渡辺嘉一のお父様の宇治橋瀬八の戸籍はなく、瀬八の長男すなわち嘉一の兄八十太良助からの戸籍が残っています。ただし嘉一の戸籍はなく、八十太郎が家を継いだ以前に養子に出ているようとのことです。戸籍を追ってみると、(瀬八→)八十太郎→正則→由幸→貞幸となっていて、現在ご子孫は東京にお住まいとのことです。
 このように、スコットランドの110年前のフォース橋は、現在も供用され、その橋のリベットが私の机の上を飾り、その建設に私の生まれ故郷信州人が深く関わっていることなど、興味が尽きない思いです。
図−2渡辺嘉一とフォース橋のヒューマンブリッジ(出展「橋の話」吉田巌編 技報堂出版1985年発行)
風に万全を期したフォース橋
 なお、フォース橋は世界で初めて、橋の耐風設計をしたと言われていますが、サー・トーマス・ブッフはテイ橋でも風荷重を考慮しています。そのようなことから厳密には、フォース橋は現地の風状況を計測して、設計に反映した最初の例と言った方がよいかもしれません。
 テイ橋の風荷重は、58.6kg/uと、サー・トーマス・ブッフの採用値は、その時点の100年前、現在からは210年前の、ジョン・スミートン(Jhon Smeaton)の表によったと言われています。
 その後設計されたサー・ジョン・ファウラーとサー・ベンジャミン・べ一カーのフォース橋は、テイ橋の約5倍の風速によって設計がされて、風に対して万全を期しています。また剛度も極めて高くし、列車荷重に対する変形も考慮しています。
以上でフォース橋に関する二話題を閉じることと致します。